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毛利秀元への約束、反故になる

2011年09月09日 22:23

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/08(木) 21:10:13.98 ID:lK534Zs3
毛利秀元は元就庶子・穂井田元清の子として生まれ、輝元の養子となっていたが、
輝元に実子が生まれると家督相続を固辞した。
自ら身を引いたというと何やらカッコイイけれども、
実はこれ、養子入り当初からの織り込み済みのコトだった。
「輝元様に実子が生まれたら相続権を放棄します」って内容の起請文を提出している。
提出させられた、と表現した方がいいかもしれない。
しかしその代わり、かなり広い領地(毛利氏領国の約四分の一)を分知してもらう約束だった。
この約束は豊臣秀吉の肝入りなのでかなり重い意味を持つ。

輝元に実子・松寿丸(後の秀就)が生まれたのは1595年、
その二年後に隆景および元清、三年後に秀吉が没した。
そろそろ後継問題もケジメをつけなきゃいけなくなった輝元は……

輝元「あのね、秀元にこんなにあげると、本家が立ち行かないんだお
   秀元にあげる約束だった山陰にはもともと吉川一門を配置してるし、
   朝鮮から戻って日も浅い今、所領替すると家中が大混乱だお」
秀元「太閤とのお約束を違えるおつもりですか!?」
輝元「死んだ太閤も、毛利家全体のためなら許してくれるお、まけてくれお」
秀元「…………」
輝元「安国寺も元康叔父上(相談役)も賛成してくれてるお!」
秀元「……仕方、ありませんね(ギリッ」
輝元「ありがとう、ありがとう(号泣)!感謝してるお!!!」

まだ年若く後ろ盾の実父もすでに亡くしていた秀元が抵抗できるはずもなく、
結果的に四万石ほどまけさせられた。
お家騒動にもならず円満に(?)事が片付いたいい話かとも思ったけど、
やっぱり泣き寝入りした秀元がかわいそうなので悪い話に。

すぐに関ヶ原で大減封くらう羽目になるしな。





795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/08(木) 22:11:31.68 ID:L8cIkRY+
>>788
隆景さんが死んだ後の毛利家は哀れすぎる・・。

796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/08(木) 22:48:50.45 ID:/oWiGQY2
>>788
そうやって養子の分け前まで取り上げてよけいな栄養与えるから
秀就はちょっと踊っただけで息切れするようなピザに…

822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/09(金) 22:54:19.68 ID:ytKbqLMM
>>788
秀元、最終的には泣き寝入りどころか…
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    鮭だけならまだしも領地まで・・・

  2. TERUと書いて屑と読む

  3. 人間七七四年 | URL | -

    所領の4分の1って約束がそもそもムチャなんじゃねえの
    ラスボスのいつものお家分断策か?

  4. 人間七七四年 | URL | 73DAy5m2

    確か結局のとこ長門一国を分地されたんだっけ。
    石高なら吉川家と同じくらいだろうから、パワーバランス考えると妥当なところか。

  5. 人間七七四年 | URL | -

    4万石まけさせられても20万石貰っているんだから
    と思ったけど予定石高の1/6を削られたんだな。結構キツイ。
    まあでも、穂井田家は12千石しかないから家臣団への報酬に
    困ることもなさそう。しかもいきなり当時の大名ランクで
    15位ぐらいになるんだし…
    やっぱりラスボスの裁定がちょいとおかしいな。

  6. 人間七七四年 | URL | -

    いつものバラまきだろうね。 兼続も四分の一配分されてたしなぁ。

  7. 人間七七四年 | URL | -

    兼続自身は5~6万石で残りは寄騎武将の分では無かったかな?
    秀元もどういう配分だったんだろう。

  8. 人間七七四年 | URL | -

    これ秀元が自主的に辞退したっていうニュアンスの美談じゃなかったっけ…

  9. 人間七七四年 | URL | -

    秀元サイドからすれば美談にでもしないとやってられない件。
    某市松さんちとかの例を見てると、
    むしろこの状況で、よく暗殺されずに済んだもんだと思う。

  10. 人間七七四年 | URL | -

    一方、長宗我部家では・・・

  11. 人間七七四年 | URL | -

    4万石程減らされたとなってるが、そもそも秀元に「毛利家の所領の4分の1を分けて別家を立てる」という話自体が、太閤の死によってウヤムヤにされかけていた。
    毛利家にとっては本家の力を削がれる事になり、朝鮮出兵直後の混乱する時期でもあり迷惑な話である。
    そのウヤムヤになりかけていた約束を「太閤の遺命だ」と毛利家に強行させ、周防・長門の内で20万石の別家を立てさせたのは内府家康だった。
    自身、秀吉の命によって東海五カ国から関東への国替えを行った家康の言葉だけに、毛利家もそれ以上の言い逃れはできなかったのだ。

    家康にとっては大老筆頭として太閤死後の政治秩序を保つ狙いもあっただろうが、太閤が目論んだように、大老No.2の毛利家の勢力を削ぐ狙いや自分へのシンパを増やす狙いも当然あっただろう。
    実際関ヶ原の直前まで、秀元は内府に近い人物と見られていた。

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