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吉川家・関ヶ原の因縁

2011年09月14日 22:43

605 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/14(水) 02:56:21.41 ID:qysaLTQZ
岩国吉川と聞いて飛んできましたw
やっぱ益田元祥さんの手腕は幕府がほしがるだけのことはあったのか。

思い出しついでに関ヶ原決戦の日も近いので、関ヶ原の因縁を思い起こさせる話を一つ。
岩国の藩祖吉川広家は、関ヶ原で兵を動かさなかった。
結果、毛利家は改易こそ免れたものの、大減封に苦しんだ。
広家はそのうちの周防岩国を領したが、
本藩の主戦派から裏切りを恨まれたのか、支藩ではなく陪臣扱いされ続け、
毛利宗家・岩国吉川家は次第に疎遠になっていく。
吉川家は、江戸時代を通じてその名誉回復が悲願となっていた。

さて幕末の動乱期、長州藩主毛利敬親と岩国領主吉川経幹との間で
ようやく両家の関係修復、協調融和が図られていた。
京都の政局で重要な位置を占めていた長州藩は、8・18政変で失脚、
池田屋事件にも触発されて禁門事変を起こし敗退、幕府より長州征討の号令がかかる。
このとき、幕府軍参謀の西郷隆盛と長州藩庁の間を取り持ったのが吉川経幹、その人だった。
第一次長征は禁門事変首謀者の処断などで手打ちとなり、
長州藩の不戦敗に終わったが、藩主父子の命は助けられた。
なにやら既視感を覚える流れである。だが続きがある。

幕府はこの処分に満足せず、第二次長征を企てた。
幕府側につくそぶりを見せながら回答を引き延ばしていた経幹は、
宗家敬親の使節が幕府に捕縛されるに及んで、「幕府への信義もこれまでか」と決戦を表明、
開戦すると、岩国兵は国境の芸州口で幕府軍を相手に奮戦した。
将軍徳川家茂の薨去により休戦となるが、事実上は長州勢の大勝利。
長州側は引き伸ばし工作の間に薩長同盟を通じて武備を整え、迎撃の用意を固めていたのだった。
関ヶ原の「空弁当」を思い出されたい。吉川は時間稼ぎにも定評がある。

その翌年、経幹は病に倒れ、天下の行く末を見届けられぬまま、ついに帰らぬ人となる。
しかし毛利敬親の厳命によって、その死は堅く秘された。
新政府が樹立し、倒幕戦争が激化する裏で、敬親は動いた。
吉川家を末家にする許しを得、吉川経幹叙任のために奔走した。
ここに至ってようやく岩国は「藩」として認められ、
永くわだかまりのあった宗家の手によって、吉川家積年の悲願が叶えられた。

吉川経幹は生きているものとして初代藩主の栄誉に浴し、死の二年後に喪が公表された。
経幹の代にしてようやく、吉川の長く苦しい関ヶ原の戦いが幕を閉じたかのようである。

時代的にスレチなうえに長文ゴメンネ。




606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/14(水) 06:11:52.62 ID:k/3N0HH4
逆に幕末に戦場で主家を裏切った井伊や藤堂との違いを考えてしまう

607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/14(水) 07:15:42.26 ID:AoIFB3Nu
江戸200年を超えてお家の名誉回復かぁすごいね
200年も平和な時代が続けばボケてしまいそうなのにね

608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/14(水) 07:36:45.28 ID:7X7GyN5m
長州藩は毎年正月に藩主と跡継ぎが関が原の恨みを忘れないように儀式がなんちゃらかんちゃらって
風雲児たちで読んだなぁ。

609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/14(水) 07:59:49.18 ID:kNTD8Sfz
まだ時期尚早

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/14(水) 08:03:45.97 ID:HOGNww7X
ほんとにあった儀式なのかね
幕末のどさくさで捏造したようにも思えるわ
江戸時代はヘタレ藩として評価されていたからさ
本当はヘタレじゃないもん(´・ω・`)の後付っぽい
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    岩国藩兵は四国艦隊下関砲撃事件の際、
    真っ先に壊乱&台場を放棄して高杉晋作に蔑まれたって挿話もあったりするね

  2. 人間七七四年 | URL | -

    ついでに第二次長征のときだったか、
    昔の慣習どおり分捕りに精を出してたら叱られた、とかね>岩国兵
    まあ最新武器ガツンと仕入れて演習とかもしてた本藩の人たちと比べられてもね、
    と思わないでもない

  3.   | URL | -

    *1
    その話は高杉が家族にあてた手紙でも書いてあったね。
    岩国の士分は弱すぎで情けない、みたいなやつ。

  4. 人間七七四年 | URL | -

    高杉の本意は諸隊上げ士分貶でしょ。

  5. あ | URL | -

    あれ?長州が薩摩に遅れをとったのは、この人のせいだって話だったはずなんだが。まさか、いい方の話だとは思わなかった。

  6. 人間七七四年 | URL | -

    急進派の長州藩士から見れば邪魔くさい存在だったとは思うが
    事象を切り取る角度なんていくらでもあるんだし、この話は吉川家が主眼なんだから
    念願かない藩に格上げされてメデタシメデタシでいいんじゃないかな

    それより第一次のときの状況が関ヶ原と重なりすぎで怖い
    本家=主戦派、吉川=消極派で吉川が外交ルートで仲介とか、毛利の不戦敗とか、
    首謀者(関ヶ原では安国寺)のみの処断で当主父子は助命とか

  7. S | URL | -

    関ヶ原後は、別に毛利と吉川の間に今思われているような対立はなかったそうな。実際輝元娘は広家息子に嫁いでいるし。それよりも毛利宗家は秀元と就隆による専横に苦しんでいて、その対抗上吉川とは仲が良かったとも。

    後に長府系が毛利宗家となり、その結果、吉川氏の家格やら何やらでいちゃもんをツケられて、毛利宗家と吉川氏との関係が悪化したということが真相らしい。

  8. 人間七七四年 | URL | -

    真偽はともかく良い話しすぎて泣けた(´;ω;`)ブワッ

  9. 人間七七四年 | URL | -

    どうやら最近の説では7さんの言うとおりの話になっているみたいだな

    関ヶ原の時の毛利は誰が悪いっていうより
    有力な家臣がバラバラだったのが痛かったな

    だからどちらかと言えばTERUの指導力が(ry

  10. オシラ774 | URL | -

    しかし、
    広家「本家が内府に弓引くことあらば命がけで止めまする」
    と言う話すらあったのに、見限られる幕府って…。

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