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「大夫殿のお心遣い」

2011年10月01日 22:06

882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/01(土) 03:48:35.90 ID:AijPZDUr
関ヶ原合戦の後、逃亡していた石田三成・小西行長・安国寺恵瓊の三名が方々で捕らえられ、洛中で引き回しの上
斬首に処せられることになった時のことである。

その時正則は、この三人に小袖を二枚づつ贈られ、受け取らせた。

これに三成は特に心を動かされ「大夫殿のお心遣い、深く感じ入りました」と悦び、その小袖に着替えた。
そしてその小袖姿で洛中を引かれ、三条河原で首打たれたということである。

(福島太夫殿御事)




883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/01(土) 07:06:46.35 ID:XmL9vE6y
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3079.html

家康の時とはえらく対応が違うなw
番使が「上様」と言わなかったら素直に礼を述べたんだろうか。

884 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/10/01(土) 13:10:56.10 ID:kszt1gKF
三成と正則の仲って実際どうだったのかね
講談的には文武の両極で頭の天辺から足の爪先まで嫌いな対立構図になりがちだが

885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/01(土) 14:21:21.82 ID:cGtB0+zg
三成を好きだった武将の方が少ないんだろう
豊臣家臣としての主張は三成のほうが筋通ってるのに
あれだけ離反されたんだから

886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/01(土) 14:24:46.22 ID:2aFH7PPE
> 豊臣家臣としての主張は三成のほうが筋通ってるのに

そこは議論があると言うか、先に秀吉の遺命を破ったのは三成の方だというフシがある。
少なくとも秀吉が死んだ途端、対家康の政治闘争を始めたのは間違いなく三成。

887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/01(土) 14:35:28.74 ID:M5eha+Wg
>>885
好き嫌いで陣営選んでるわけじゃないんだな
基本的に家を残すために勝ちそうな方についているたくさんの家来を養う責があるわけだし
正則も福島家存続のためには(豊臣見捨てても)是非も無しみたいな書状残ってたろ?

888 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/01(土) 15:39:33.19 ID:VaiSmuLA
西国大名でさえそうなんだから、東北がカオスになっても不思議はないな
伊達と佐竹が関ヶ原直前に和睦に向けて使者のやり取りしてるんだぜw

889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/01(土) 16:29:39.02 ID:cGtB0+zg
>>887
それは大坂の陣じゃない?
関ヶ原は福島が徳川の味方しなければ状況は全く変わってくるはず

890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/01(土) 16:41:33.35 ID:Gedb5xCM
>>887
最後は好き嫌い

891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/01(土) 16:50:46.54 ID:EenNPniL
小野寺義道さんが猛然と頷いています

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/01(土) 17:02:35.74 ID:g7M+xTMV
>>889
三成が豊臣家主流になると結局正則にとってはマズい


894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/01(土) 17:29:53.31 ID:n0fjwKYT
突き詰めれば
石田三成が生きてたから関ヶ原の戦いが起こって、そして西軍が負けた。
豊臣家の安泰を真剣に福島公が望んでいたのなら三成公と淀君は暗殺しとくべきだった

895 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/01(土) 18:03:09.10 ID:AR4WGD0V
なにこの正則的思考w

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/01(土) 18:21:21.06 ID:QLNmfwXs
前田上杉宇喜多毛利島津と各個撃破されておしまいw
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | A75NpKCQ

    >891

    八柏道為さんが草葉の陰で嘆いてます。

  2. 人間七七四年 | URL | -

    豊家安泰の為に三成を排除しようとしたのが七将事件じゃないのか?

  3. 人間七七四年 | URL | -

    三成は豊臣の忠臣だと思うけど三成が存在したことが豊臣にとっていけなかったのかなぁ

    ホントに嫌われすぎだろう・・・

  4. 人間七七四年 | URL | -

    どういう形で豊臣家を支えようとしたかの違いなんだから、誰が悪いと言うことでもなく

  5. 人間七七四年 | URL | -

    目指す政治の形が違ったってだけで
    個人的には特に仲悪くは無かったんじゃないかな>三成と正則

    清正は知らん

  6. 人間七七四年 | URL | -

    秀吉死後のゴタゴタは、単に豊臣家の政治体制の脆さが表面化しただけなのでは?
    又、所謂武断派との対立も徹底的な亀裂が生じるのは、朝鮮での2つの戦の後だと
    思います。それまでは少なくても仕事上は、両派も協力してますしね。
    (名護屋城建設は清正と三成の功績が大きいと言われてますよね?)

  7. 人間七七四年 | URL | -

    日本を統一しちゃった時点で、武断派が主導権をとるには、戦争を継続するよりしょうがないから、対外戦争へと行かざるを得ないかも。
    他方、文治派は、国内を安定させ、殖産興業に努めればいいわけだから、相対的に地位が上がってきそう(清正や正則も、内政もできるけど、三成外五奉行と正面からやったらさすがに負けそう)。
    もちろん、秀吉の高齢化とか不安要因はあるんだけど、豊臣政権が継続するという前提で考えた場合、それまで主導権を取っていたけど、朝鮮の役に失敗した武断派と、将来的に地位が逆転しそうな文治派の争いのような気がする。
    徳川幕府の初期でも、武断的な連中は、政治から遠ざけられ、逆に本多佐渡の地位が上がってきたりするわけだから、これの先取り的な問題だったのかもしれない。
    構造的な問題で、個々人の好悪と別のところで話が進みそうな気がするなあ。

  8. 人間七七四年 | URL | -

    武断派だの文治派だので分けてるから意味がわかんなくなる

    そもそも福島正則は石田三成の政敵なんだよ
    秀吉の生前から派閥を作って政権内での主流派争いのようなことをしていた
    特に慶長年間は正則の清洲拝領で中央での発言権が増し、政務に積極的に関わりはじめ三成の立場を脅かしはじめる
    同時期に三成も佐和山拝領でほぼ同格となり、この頃から対立が激しくなる
    秀吉自身がそうするように仕向けていたところもある(秀吉は部下を競わせる人事をすることが多い)
    秀吉が生きてるうちは彼が重石でなんとか回ってたけど、死後に二人の権力争いが激化
    三成は秀吉の遺言によって政務を委任された家康から権力を奪って自分が主流になることを画策し、それを見た正則は逆に家康を利用して権力中枢に食い込むことを考えた
    その結果が三成襲撃事件であり、関ヶ原に帰結するわけだ

    正則と三成の対立はどちらかが下につかなければおさまらなかったが、どちらもそのつもりはなかったので、この二人が手を取り合うということはなかっただろうな
    好き嫌いの感情云々でなく、政治的な問題だから

    徳川では同じような対立軸として本多正純と大久保忠隣が上げられる
    この二人も政敵として有名だけど、プライベートでは幼なじみで仲も悪くない
    (正純は忠隣の父忠世に保護されて育っているし)
    好き嫌いだの仲の良し悪しだのどちらが忠義にあついだの云々という感情は政治には関係ないと考えないとそりゃわけがわからないと思う

  9. 人間七七四年 | URL | -

    >米8
    それは何か資料か何か有るのかな?もしくはサイト?
    出来れば教えて欲しいのだが。
    それにどうして正則オンリーなのでしょうか?
    勿論ドラマ等に有る「あいつ嫌いだから排除」なんて優しい物
    じゃないのは理解してますよ。
    でも、かなり断言入ってるので何か資料が有るのかな?と。

  10. 人間七七四年 | URL | -

    8じゃないけど
    慶長年間の正則居所は不明確なところもあるが
    ほぼ日本国内にいたらしいね
    秀次失脚に国替えと色々あったしね

  11. 人間七七四年 | URL | -

    >10
    それですよね。良く良く見て見ればですよ?三成のは立場的には奉行等の役職
    で加増しているけど、加増自体を断わって居る事も多い。
    もし本当に三成が米8の言う通りの人物なら、尚更他の武将との派閥なりの
    優位に立つ為に加増を受け容れる筈です。

    現にその正則の清州拝領は、三成が固辞したからですよ?普通21万石蹴るかな?
    だからこそ米8の考えに至る何がるのか?良く分からない。
    もし個人的な考えのなら、そう書くべき。

  12. 人間七七四年 | URL | -

    三成と正則が政敵なら、何がしかの政策的対立があったはずで(政策的対立がないなら、仲が悪いだけ)、それが、文治派と武断派と呼ばれるものの争いなんじゃなかろうか。

  13. 人間七七四年 | URL | -

    政敵であったのは間違いないんだろうが、個人感情は正直よくわからんなぁ

    正則は秀吉の血縁だし、そこら辺のプライドとか意地もあったのではなかろーかと想像

  14. 人間七七四年 | URL | -

    若い頃は、ただ単に同じ秀吉の子飼い武将としてのライバル関係的な
    付き合いだったと個人的には思って居る。

    現に三成と俗に武断派と呼ばれる人間達との関係悪化に関して、明確に
    記述があるは朝鮮に渡る前後からだ。つまり、中は余り良くは無いけど
    仕事上は付き合いが有ったのは当然。そこへ秀吉と言う抑えが無くなっ
    たから一気に進んでしまったとしか思えない。

    それを行き成り派閥がどうの、政敵がどうのってのは飛躍し過ぎ。
    単に文治政治へ移行し切れなかった豊臣政権自体の失敗が、家臣の
    対立として表面化しただけ。

  15. 人間七七四年 | URL | -

    ※11
    三成が固辞したのって九州じゃなかったか
    それでなくても、結局佐和山拝領してるよね
    三成が近江佐和山19万石を拝領したのはちょうど秀次事件の後、正則が清洲を拝領したのと同時期だから「加増は受け入れている」んだよ
    正則は慶長の役では渡海せず、この時期はほぼ秀吉の側で普請など内政に関わっていたのは確か
    秀次事件の顛末やその後の秀次に近しかった武将との関わりを見ても、文禄~慶長年間ですでに三成との対立軸として正則がいた(それによって閥が形成された)と見て間違いないだろう
    政策対立があってもなくても、どちらの閥が政治の主導権を握るかが重要なのであって、つまりこれを「政敵」と言う

    それに、三成が秀吉の死後いち早く家康から政権奪取に動いたのは確か
    秀吉の遺言には「家康が政治しろ」って書いてたのに、数日たたないうちに大老奉行の合議に変えさせ、遺言にある「多数派工作の禁止」を破った
    これをもって即正則との対立とは言わないけど(別の派閥に清正閥があったくさいし)、この行為が正則を家康に接近させ、主導権争いを激化させたのは疑う余地がないよ

  16. 人間七七四年 | URL | -

    >米15
    想定がそもそも違うし、誰も加増を受け取って無いなんて書いて無い筈です。
    それに佐和山拝領は秀吉の命令です。だからここで佐和山加増を出すのは全く
    の筋違いも良い所。

    11が書いて有るのは、8が一体何の資料を持っての発言なのか?と書いてある
    話の流れなのに、それすら書いて無い状態でこの発言では何ともね。
    最近個人的思考からくる発言なのか?何かの資料を元にした発言なのか?
    良く分からん発言が多い気がする。ここは個人の考えの押し付け場所じゃない
    でしょ。

  17. 人間七七四年 | URL | -

    対外は織田の頃から言われてたな。あれは威嚇行動警察行動だろ
    失敗もしていない。
    武断でも内政軽視はしてないでしょ。嫌いとかいう感情だけじゃ動かないっしょ
    各個撃破とか簡単にはいかないし口が悪い

  18. 人間七七四年 | URL | -

    上のコメント、全てのコメントを否定してるだけで気分を害しますね。

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