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幕末に生きた藩祖の縁

2011年10月02日 22:01

910 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/10/02(日) 08:08:51.22 ID:7MyDJQes
幕末に生きた藩祖の縁

津軽為信は南部系久慈氏に生まれて大浦家に婿入りしたとも、大浦家の血筋とも
言われるが、津軽統一後は大浦家に近衛尚通の落胤がいたという伝えに着目して、
その孫である近衛前久の猶子となり、本姓を藤原に変え京都政界に足場を築いた。

それから300年近く過ぎた幕末。弘前藩本国は当初、奥羽越列藩同盟寄りだったが、
藩京都屋敷御用人を任された西館孤清は、鳥羽伏見の戦い等で倒幕側優勢と知る。
付き合いが続いていた近衛家から、勤王に励むべしという朝廷の令書と、近衛家の
教書をいただいた西館は帰国して藩論を新政府側に統一した。

最後の功名稼ぎに南部領に侵攻して撃退される(野辺地戦争)なんてことがあった
ものの、戊辰戦争では官軍側だったということが考慮されて弘前城は破却を免れ、
江戸時代の天守が残る数少ない名城として現在も残っている。

西館の墓は江戸の旧下屋敷横の寺にあり、有志が今月25日に120回忌法要を開いた。
(青森県の地方紙「東奥日報」より)。


主家が滅んで再仕官を繰り返しただけなのに、鳥羽伏見で幕府側→討幕側に寝返っ
たら「藩祖に似たり」と罵られた藤堂家とか、宮中で煙草を1本失敬したら「血は
争えんな」と天皇陛下にからかわれて学者に先祖の経歴調べを頼んだ蜂須賀家とか、
藩祖がやったことというのは虚実、善悪含めて影響が大きいようです。




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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    徳川260年の平和な間に最後の戦乱の話がどんどん大きくなっていったんだろうなあ
    しかし最後の話、言われた方に正勝の血が繋がって無いどころか言ってる方こそ繋がってると思うと…

  2. 名無しのアレ | URL | -

    奥羽列藩同盟って太平洋側が幕府よりで日本海側が譜代大名を除いて
    新政府よりだったんじゃないかな。
    秋田藩連合は明確に反発しているけど津軽・上杉なんかも取り敢えず
    仙台・会津の軍事力の前に同盟を結んだけど状況次第で態度を変える気
    マンマンだったような。
    やっぱり、情報格差が有ったのかな?

  3. 人間七七四年 | URL | -

    イメージってあるからな
    森と聞いたらヒャッハーしてそうで
    政宗と聞いたら無茶してそうな気がするのと同じだw

  4. 人間七七四年 | URL | -

    上杉は会津に恩有るからな。
    むしろ藩主自ら乗り込んできて酒宴で酔っ払い、
    「甚だ愉快なり」と自ら謡ってテンション高かったそうな。

  5. 人間七七四年 | URL | -

    井伊直政「薩摩の攻撃が元で死亡しました」
    井伊直弼「薩摩藩士に首とられました」

  6. 人間七七四年 | URL | -

    そもそも長州薩摩が討幕の気運に乗ったのは
    藩の成り立ちが大きいだろう。
    徳川に取りたててもらった家では
    討幕で意思統一はなかなか出来ない。

  7. 人間七七四年 | URL | -

    幕末の弘前藩は寝返り決めてからののらりくらりぶり(寝返り決めたのに久保田攻撃に若干兵力を提供してたりする)と、
    野辺地戦争で周到に奇襲仕掛けた上に敢えなく敗北した無様さがもうダメ

  8. 人間七七四年 | URL | A75NpKCQ

    山内一豊「長曽我部旧臣を騙し討ちにしました」

    山内容堂「土佐勤王党を弾圧しました」

  9. 人間七七四年 | URL | -

    似たようなとこだと島津と近衛、毛利と本願寺が有名かな

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