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最上義俊と徳川実紀

2011年11月04日 22:05

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/04(金) 00:21:24.49 ID:qGVHfQ/S
最上義俊と徳川実紀

「徳川実紀」によれば元和初頭九月
最上義俊が大酒を呑み芸者を囲い舟遊びの挙げ句に大名という身分でありながら船頭と舵の取り合いで
争論した、という不名誉なことが記録されている。
ただし、同時期七月から九月にかけて江戸城普請に携わる家臣らを労う義俊の書状が存在することによって、
この時には義俊が山形に在国中だったことが明らかなので事件が事実であったかはともかく、
時期については誤りとしなければならない。

義俊は暗愚な主君とされがちであるが、福島正則改易の江戸屋敷接取の立ち会いに若年ながら
見事な統率を発揮したとして、徳川秀忠が刀を与えたという。
前後義俊は16程の齢。
当時の彼の力だけでは家臣の制御ができなかったであろうことは、のちの経緯から推測することは可能である。

最上改易後は子義智を遺し御家再興を憂いつつ27歳で死去している。




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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    仮に船頭と揉めたのが事実だとしても
    針小棒大に書かれてしまった気がする。

  2. 人間七七四年 | URL | afXvPe0k

    15・16歳のお殿様が
    義俊「舵取らせて」
    船頭「危ないですよ」
    義俊「面白そうだから貸して」
    船頭「ダメです」
    といったのが尾ひれ端ひれ付いたのか

    最上の殿様「のトコの家来」の
    「」内が省略されて
    義俊のせいにされたのか

    「徳川実紀」では船頭が江戸最上屋敷まで苦情を言いに押しかけた事にもなってる

  3. 人間七七四年 | URL | -

    不慣れなタクの運ちゃんとか、ハンドル分捕りたくなるから、そういうのだったかもしれんしなぁ。

  4. 人間七七四年 | URL | -

    なんか途中ウィキの丸写しですね。

  5. 人間七七四年 | URL | t4BXKsVg

    改易後、もっと絵を描いて欲しかった。
    天童市愛宕神社の大絵馬の写真を最上義光歴史館のサイトで見たが、襲封直後の中学生の作には見えないよあれは…

    絵に没頭できたら、もっと長生きできたのかも

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