5 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/13(日) 22:37:10.46 ID:1S2s1492
永正14年(1517)2月4日戌の刻(午後8時前後)、京三条の、将軍足利義稙邸に夜討ちがあるとの風聞があり、
世上騒動となり、驚き慌てる事もっての外であった。
紫宸殿から三条御所の方を見ると、夜討ちを警戒するため三条周辺に掲げられた松明が、まるで晴れた夜空の
星のように数多く輝いていた。
陣下の衆が少々馳せ参じ、外様番衆(奉公衆)も、将軍家直属であるため三条御所に馳せ参じた等、云々。
しかし夜討ちの事はあくまで風聞であり、実否が解らず騒ぎも収まらなかった所、将軍に従っていた神祗伯の
白川雅業(雅業王)が参内してその子細を申し上げるには、唐門役所において盗人の騒ぎがあり、その騒ぎを聞いた
者たちが夜討ちだと勘違いしてしまったとの事である。全く奇異の事だと云々。
あとで聞いた所によると、細川京兆(高国)が具足を着たまま各所に礼参したと云々。全く稀代の事である。
また、聞く所によると京の児女たちの間では、この日に天魔の祝儀があると言われていたそうだ。
さてさて、洛中の騒動はその為だろうか?
(二水記)
この時期の京の情勢の不安定さを、よく表している事件であろう。
6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/14(月) 06:45:01.38 ID:ifI3vtCO
大山鳴動鼠一匹か
永正14年(1517)2月4日戌の刻(午後8時前後)、京三条の、将軍足利義稙邸に夜討ちがあるとの風聞があり、
世上騒動となり、驚き慌てる事もっての外であった。
紫宸殿から三条御所の方を見ると、夜討ちを警戒するため三条周辺に掲げられた松明が、まるで晴れた夜空の
星のように数多く輝いていた。
陣下の衆が少々馳せ参じ、外様番衆(奉公衆)も、将軍家直属であるため三条御所に馳せ参じた等、云々。
しかし夜討ちの事はあくまで風聞であり、実否が解らず騒ぎも収まらなかった所、将軍に従っていた神祗伯の
白川雅業(雅業王)が参内してその子細を申し上げるには、唐門役所において盗人の騒ぎがあり、その騒ぎを聞いた
者たちが夜討ちだと勘違いしてしまったとの事である。全く奇異の事だと云々。
あとで聞いた所によると、細川京兆(高国)が具足を着たまま各所に礼参したと云々。全く稀代の事である。
また、聞く所によると京の児女たちの間では、この日に天魔の祝儀があると言われていたそうだ。
さてさて、洛中の騒動はその為だろうか?
(二水記)
この時期の京の情勢の不安定さを、よく表している事件であろう。
6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/14(月) 06:45:01.38 ID:ifI3vtCO
大山鳴動鼠一匹か
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コメント
人間七七四年 | URL | IY7bLZJE
でも実際次代でやられてますし、当時の京はそれだけ政情不安だったのかと
( 2011年11月14日 22:56 [Edit] )
人間七七四年 | URL | -
手元の本で1517年の頃を少し調べてみたら、まだ北条早雲が生きていたり、
武田信虎が元気に暴れていた時期なんだね。戦国時代初期といったところか。
この頃の治安って果たしてどの程度のものだったんだろう。
( 2011年11月15日 00:27 )
人間七七四年 | URL | bH1htKmU
多分、本格的に京の治安ってか、政情がある程度回復するのは、長慶が入京してから
でも、その長慶君は京周辺のあっちゃこっちゃで戦してたから、本格的には信長以降かと
そりゃ京の童や商人も生意気(逞しく)なりますわな
( 2011年11月15日 13:35 [Edit] )
人間七七四年 | URL | -
この頃都に流行るもの…だっけ。
あの唄のリズムは好きだったなぁ。
( 2011年11月15日 20:24 )
人間七七四年 | URL | bH1htKmU
この頃からちょっとした規模の商家に釘貫(簡易な木の門)が備えられた …と、どこかで見た気がする
元々寺やら公家の家にはちょっとした堀やら囲いがあったんだけど、商家も自衛の為に備えるようになったとか…
それが本当なら、かなり治安悪かったんじゃないかな
強盗に限らず土一揆とか
( 2011年11月16日 18:42 [Edit] )
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