8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/15(火) 01:26:37.02 ID:IgOggTMq
天正三年のことである。
阿波を実質的に支配する三好長治は父義賢に似ても似つかぬ暗愚の君主であり、若年にして政務を蔑ろにし、
酒色に耽る生活を送っていた。
己に諫言するものに対しては極めて暴慢であり、この前年には重臣篠原長房父子をその一族篠原自遁の
讒言を容れて上桜城に攻め滅ぼし、この三年にはやはり諫言を行った讃岐の香川、香西両氏を憎み、
その上司である実弟十河存保を無視する形で兵を遣わして攻めさせている。
そんな不安定化の進む情勢を理解していたのかいなかったのか、長治には長らく抱く一つの夢があった。
それは三好氏の支配する領国全ての家臣、民草に、三好氏代々が信仰する法華宗への改宗させると言うものだ。
当時の阿波は真言宗の強い土地で、主に畿内に勢力を持つ法華宗はほとんど信仰されていなかった。
長治の父義賢はその晩年、法華宗への帰依を深めて堺に妙国寺を建立したりもしている。法華宗の勢力を
強めることは、親孝行になると思ったのかもしれない。
……父やその兄弟が健在の時代の宗教政策は全宗教保護路線だったのだが気にしちゃいねえあたりが
暗愚の暗愚たる所以だろう。
「阿波一国の衆、生まれ子まで日蓮宗になし、法華経をいただかせ、他宗の寺にでいりのことゆるされず」(三好別記)
かくしてこの年、阿波国中の寺院、領民に対して法華宗への改宗が三好長治の命によって発布された。
……えっ、淡路と讃岐? 諫言を蔑ろにされてる存保とか安宅信康がそれを呑むと思う?
ともあれこの命令は軍事力に裏打ちされた強制力を持つもので、特に勢力の強い真言宗が狙い撃ちにされた。
多くの檀家が強制改宗に追い込まれ、人の出入りを禁じられた真言宗諸寺はたちまち消滅の危機に晒されたのだと言う。
無論、真言宗ほか他宗派は猛反発。大滝山の持明院、大滝寺などは即座に長治に法華宗との宗論を要求、
山伏三千人を繰り出し強訴に及んだ。容れられなければ一戦も辞さない構えである。
流石の長治もこれを無視することは出来ず、宗論の要求を受け入れた上で妙国寺の開基、日や経王寺の
僧侶らを数多阿波へと招く。
一方で要求が認められた真言宗側も高野山から円正を招き、いざ両勢力は勝瑞で宗論に挑む!
……さて、その肝心の勝敗たるや、これがわからないのが実情である。
軍記物である『三好別記』等ではこれを真言宗の勝利とする。
一方で当時の文献で唯一勝瑞宗論に触れた文献である『己行記』によれば、法華宗の勝利とする。
ただし『己行記』は宗論の当事者である日の著作によるものであるため、客観的な記述とは言いがたい。
ちなみにこの日、後に安土宗論で浄土宗に負けちゃう人だったりもする。
この後、長治の支配が民心の離反から急速に崩壊し、天正五年には細川真之に滅ぼされる事を思えば
法華宗が勝ったのかも知れない。
この後、法華宗の阿波進出がさして進まずなお真言宗が強勢であったことを思えば、真言宗が勝ったのかも知れない。
いずれにしてもこの勝瑞宗論、法華騒動の発生を見れば長治が改宗への他宗の強い抵抗を予想できていなかったのだろう。
備前松田氏といい土気酒井氏といい法華宗はこの手の話が多い気がする。
9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/15(火) 01:36:10.47 ID:80diu9tM
四国は大師様が結界をはられたので、他宗は流行らないのですby徳島人
13 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/15(火) 19:35:23.38 ID:nmpU8P7w
>>8
実際徳島は真言宗ばっかりで、社会科で全国的には他宗派の方が多いと習ってもにわかには信じられないくらいだった
グラフを見ても他県と比べて突出して真言宗が多かった、それでも今の方が昔と比べて他宗派の寺は増えてる
よくまあ実行しようと思ったもんだ…
天正三年のことである。
阿波を実質的に支配する三好長治は父義賢に似ても似つかぬ暗愚の君主であり、若年にして政務を蔑ろにし、
酒色に耽る生活を送っていた。
己に諫言するものに対しては極めて暴慢であり、この前年には重臣篠原長房父子をその一族篠原自遁の
讒言を容れて上桜城に攻め滅ぼし、この三年にはやはり諫言を行った讃岐の香川、香西両氏を憎み、
その上司である実弟十河存保を無視する形で兵を遣わして攻めさせている。
そんな不安定化の進む情勢を理解していたのかいなかったのか、長治には長らく抱く一つの夢があった。
それは三好氏の支配する領国全ての家臣、民草に、三好氏代々が信仰する法華宗への改宗させると言うものだ。
当時の阿波は真言宗の強い土地で、主に畿内に勢力を持つ法華宗はほとんど信仰されていなかった。
長治の父義賢はその晩年、法華宗への帰依を深めて堺に妙国寺を建立したりもしている。法華宗の勢力を
強めることは、親孝行になると思ったのかもしれない。
……父やその兄弟が健在の時代の宗教政策は全宗教保護路線だったのだが気にしちゃいねえあたりが
暗愚の暗愚たる所以だろう。
「阿波一国の衆、生まれ子まで日蓮宗になし、法華経をいただかせ、他宗の寺にでいりのことゆるされず」(三好別記)
かくしてこの年、阿波国中の寺院、領民に対して法華宗への改宗が三好長治の命によって発布された。
……えっ、淡路と讃岐? 諫言を蔑ろにされてる存保とか安宅信康がそれを呑むと思う?
ともあれこの命令は軍事力に裏打ちされた強制力を持つもので、特に勢力の強い真言宗が狙い撃ちにされた。
多くの檀家が強制改宗に追い込まれ、人の出入りを禁じられた真言宗諸寺はたちまち消滅の危機に晒されたのだと言う。
無論、真言宗ほか他宗派は猛反発。大滝山の持明院、大滝寺などは即座に長治に法華宗との宗論を要求、
山伏三千人を繰り出し強訴に及んだ。容れられなければ一戦も辞さない構えである。
流石の長治もこれを無視することは出来ず、宗論の要求を受け入れた上で妙国寺の開基、日や経王寺の
僧侶らを数多阿波へと招く。
一方で要求が認められた真言宗側も高野山から円正を招き、いざ両勢力は勝瑞で宗論に挑む!
……さて、その肝心の勝敗たるや、これがわからないのが実情である。
軍記物である『三好別記』等ではこれを真言宗の勝利とする。
一方で当時の文献で唯一勝瑞宗論に触れた文献である『己行記』によれば、法華宗の勝利とする。
ただし『己行記』は宗論の当事者である日の著作によるものであるため、客観的な記述とは言いがたい。
ちなみにこの日、後に安土宗論で浄土宗に負けちゃう人だったりもする。
この後、長治の支配が民心の離反から急速に崩壊し、天正五年には細川真之に滅ぼされる事を思えば
法華宗が勝ったのかも知れない。
この後、法華宗の阿波進出がさして進まずなお真言宗が強勢であったことを思えば、真言宗が勝ったのかも知れない。
いずれにしてもこの勝瑞宗論、法華騒動の発生を見れば長治が改宗への他宗の強い抵抗を予想できていなかったのだろう。
備前松田氏といい土気酒井氏といい法華宗はこの手の話が多い気がする。
9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/15(火) 01:36:10.47 ID:80diu9tM
四国は大師様が結界をはられたので、他宗は流行らないのですby徳島人
13 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/15(火) 19:35:23.38 ID:nmpU8P7w
>>8
実際徳島は真言宗ばっかりで、社会科で全国的には他宗派の方が多いと習ってもにわかには信じられないくらいだった
グラフを見ても他県と比べて突出して真言宗が多かった、それでも今の方が昔と比べて他宗派の寺は増えてる
よくまあ実行しようと思ったもんだ…
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コメント
人間七七四年 | URL | -
やばい! だんだん長治タソが可愛くなってきたよ 母性本能がそうさせるのかしら・・・
男だけどw
( 2011年11月16日 05:20 )
人間七七四年 | URL | -
うちは浄土真宗だが,現在でも全国的には最大の宗派ながらその存在感の無さ(特に政治的な)は泣けるw.まあ上流階級に信者が少ない,とかいうのが悪いのだろう.権現様も改宗しちゃうし.
( 2011年11月16日 10:30 )
人間七七四年 | URL | -
開祖以来他宗に喧嘩吹っかけけるのは、伝統だろw
( 2011年11月16日 20:02 )
人間七七四年 | URL | PUKLkuOc
宗論は どちらが勝っても 釈迦の恥
わけいれる 麓の道は 違えども 同じ高嶺の 月を見るかな
( 2011年11月17日 04:37 [Edit] )
人間七七四年 | URL | YzOVvsF6
あの物外軒実休からどうやってこんな盆暗息子が生まれた(育った)のかなあ…
にしても四国ってそんなに真言宗多かったんだ(お袋が東予地方出身なのに知らなかった)
( 2011年11月17日 06:17 [Edit] )
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