FC2ブログ

大阪冬の陣・講和まで

2011年11月27日 22:00

188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 15:04:06.41 ID:46CaLTZs
慶長19年(1614)大阪冬の陣も、12月に入ると、幕府軍に外堀まで押し寄せられ、また大筒の一斉射撃などにより
大阪方に動揺が見られるようになった。ここで将軍秀忠は、大御所家康にこう申し入れる

「現在諸軍勢はすべて、大阪城の堀際まで仕寄せ、包囲を完全にしました。
そこで、2、3日の内に総攻撃をかけるべきと考えます。」

これを聞いて家康

「総攻撃のこと、先ず待ちなさい。
この城は、例え外郭を取ったとしても、二の丸三の丸までは落とし難い。

どういう事かといえば、昔ここに六条の上人(本願寺顕如)が立て籠もったのを、信長は数万の軍勢で
3年攻められたが、ついに落ちず、結局講和によってようやく、大阪攻めから解放された。
その後太閤が多年にわたって改修をし、そこに今大勢が立て籠もっている。このような城に
平攻めでは利を得難いものだ。

戦いというものは、敵の在り方によって転化するべきものである。
平攻めの難しい城ならば、手立てを変えて落とすものだ。
ここはただわしに任せて、暫く待つのだ。」

この家康の言葉に秀忠は抗うことが出来ず、総攻撃は延期された。

さて、それから家康は本多正純を召して言った

「大阪城内からの報告によると、秀頼は城から討ち出ての決戦を叫んでいるという。さすがに若い。
それに対し御袋(淀殿)は秀頼の身の上を案じ、和睦を願っているという。やはり母である。
そして豊臣家中は小身者と新参者の集まりで、これをまとめ主導する者がおらず、今は皆、考える所が
バラバラになっているようだ。

これなら難しいことはない。講和工作をしてみろ。(手難き事はあらじ。扱ひを入れてみよ)」

この命に正純は早速工作を始め、京極若狭守忠高の弟(安毛高政か?)を交渉役として大阪城に入れた。

「大御所様が仰せになっていることには、秀頼の一旦の御不思慮によって、関東より軍勢を向けられた。
近日中に総攻撃となるだろう。そうなればこの大阪城といえども落城するのは明白である。

そうではあるが、秀頼とは他ならぬ関係であり、この事を大変いたわしく思っている。
もし秀頼に和議を結ぶ意志があるのなら、講和交渉を始めようではないか。」

これに、城内にも講和の機運が強まっていた所から、渡りに船と喜び、すぐに和睦となることが決まったという。

12月21日の夜半より、互いの鉄砲が止められた。
翌22日より、竹束・幟・馬印の類が撤収された。
敵も味方も、これはいかなることかと、ただ夢の覚めたような心地だった。

そうではあるが城門は未だ開かなかったので、城の内外の者たちは皆堀端に出て、
あるいは親子兄弟、旧友、縁の者たちに、手を上げ扇を上げ、互いに命が助かり再び合うことが出来た事を
大いに喜んだ。

23日より内外より人夫を出し、城の櫓・塀を打ち毀ち、石垣を崩し堀を埋め、三の丸まで平地となった。


冬の陣の講和から一月も経たず発行されたと言われる仮名草子「大阪物語」より、
その講和の模様についての、実に臨場感のある記述である。




スポンサーサイト





コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    講和から一月も経たず発行って…
    思惑とか色々だだ漏れすぎるだろw

コメントの投稿

(コメント編集・削除に必要)
(管理者にだけ表示を許可する)

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://iiwarui.blog90.fc2.com/tb.php/6014-15e758a7
この記事へのトラックバック