957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/09(金) 18:00:21.74 ID:73M5SAMd
天正10年(1582)、備中高松城を攻めていた羽柴秀吉軍に対し、城将清水宗治と杉原家次は、自分たちの
自害を以って城兵たちの命を救うことを請い、秀吉はそれを許した。
6月、清水たちは切腹し高松城は陥落した。しかし、毛利氏本体との講和は未だであった。
そんな時、秀吉のもとに急報が入った。明智光秀が謀反を起こし、京に軍勢を入れ本能寺において
その主、織田信長を弑した、というのである。
秀吉は驚愕し、配下の諸将を呼び協議を行った。この時進み出たのが、蜂須賀正勝である。
正勝は進言する
「ここは先ず、毛利氏と講和をしてその上で賊を討つべきです!」
秀吉は正勝の方針に従い、毛利氏の寵臣である安国寺恵瓊を呼び出し毛利輝元と講和をしたいと伝えた。
しかしこの時、本能寺の変については伏せていた。
これに蜂須賀正勝は再び、秀吉に進言した
「信長公が弑殺されたという、この大事を伝えずに済ませることは不可能です!
今これを秘密にすれば、他日彼らがこれを聞いた時、我らが怯えていたのだと受け取るでしょう。
速やかにこれを伝えるべきです!
もしこれを伝えたことで毛利が講和をしないというのなら、ここで一戦し勝敗を決すればよいではありませんか!」
秀吉はこれに一言、答えた
「善し」
そこで正勝は自ら毛利氏の元に使いに行き、本能寺の変の事を告げた。その上で、この事態に対し
毛利氏はどのような去就を取るつもりかと聞く。
はたして、輝元は講和の方針を変えなかった。さらに秀吉の陣に使者を遣わして信長の死に対する
弔問を行い、誓書まで残していった。
ここに和平は成り、秀吉は全軍を以て光秀との戦いに向かうのである。
以上、蜂須賀家の記録にある、本能寺の変時の秀吉軍の模様である。
(蜂須賀家記)
958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/09(金) 18:59:00.97 ID:BhNkB160
ありえないだろ
天正10年(1582)、備中高松城を攻めていた羽柴秀吉軍に対し、城将清水宗治と杉原家次は、自分たちの
自害を以って城兵たちの命を救うことを請い、秀吉はそれを許した。
6月、清水たちは切腹し高松城は陥落した。しかし、毛利氏本体との講和は未だであった。
そんな時、秀吉のもとに急報が入った。明智光秀が謀反を起こし、京に軍勢を入れ本能寺において
その主、織田信長を弑した、というのである。
秀吉は驚愕し、配下の諸将を呼び協議を行った。この時進み出たのが、蜂須賀正勝である。
正勝は進言する
「ここは先ず、毛利氏と講和をしてその上で賊を討つべきです!」
秀吉は正勝の方針に従い、毛利氏の寵臣である安国寺恵瓊を呼び出し毛利輝元と講和をしたいと伝えた。
しかしこの時、本能寺の変については伏せていた。
これに蜂須賀正勝は再び、秀吉に進言した
「信長公が弑殺されたという、この大事を伝えずに済ませることは不可能です!
今これを秘密にすれば、他日彼らがこれを聞いた時、我らが怯えていたのだと受け取るでしょう。
速やかにこれを伝えるべきです!
もしこれを伝えたことで毛利が講和をしないというのなら、ここで一戦し勝敗を決すればよいではありませんか!」
秀吉はこれに一言、答えた
「善し」
そこで正勝は自ら毛利氏の元に使いに行き、本能寺の変の事を告げた。その上で、この事態に対し
毛利氏はどのような去就を取るつもりかと聞く。
はたして、輝元は講和の方針を変えなかった。さらに秀吉の陣に使者を遣わして信長の死に対する
弔問を行い、誓書まで残していった。
ここに和平は成り、秀吉は全軍を以て光秀との戦いに向かうのである。
以上、蜂須賀家の記録にある、本能寺の変時の秀吉軍の模様である。
(蜂須賀家記)
958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/09(金) 18:59:00.97 ID:BhNkB160
ありえないだろ
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コメント
人間七七四年 | URL | -
蜂須賀家の記録だろうなと思いながら読んでたらやっぱりそうだった
いっそ清々しい
( 2011年12月09日 22:24 )
人間七七四年 | URL | -
黒田某「・・・」
( 2011年12月09日 23:42 )
人間七七四年 | URL | -
正勝さんは晩年は地味だったからなぁ、しかし無理やりすぎる。
( 2011年12月10日 00:12 )
人間七七四年 | URL | -
まったく
( 2011年12月10日 01:00 )
人間七七四年 | URL | -
この話だと清水宗治の切腹が順番として前になっちゃうのか。
( 2011年12月10日 02:01 )
人間七七四年 | URL | -
流石は蜂須賀さん家ですね(棒読み)
( 2011年12月10日 04:08 )
人間七七四年 | URL | -
吉川某「ありえないだろ」
( 2011年12月10日 04:30 )
人間七七四年 | URL | -
明治天皇「先祖の血は争えんな。はっはっは!」
( 2011年12月10日 05:07 )
人間七七四年 | URL | -
実際この時小六は何やってたんだろ
官兵衛なんかはKY発言してラスボスに睨まれた逸話が残ってるが(これまた俗説らしいが)
( 2011年12月10日 05:33 )
人間七七四年 | URL | -
信長が討たれたのを知らせる辺り予想外の展開 面白いな
( 2011年12月10日 06:24 )
人間七七四年 | URL | -
前半の方針決定については寄騎だった官兵衛の意見だけで動くわけもないし、
秀吉の重臣だった小六も意見出してたろうから、多少話を膨らましてもまあいいとしても
信長の死をわざわざ伝えるとかありえんだろ…
( 2011年12月10日 08:01 )
人間七七四年 | URL | -
何気に毛利をヨイショしている辺りに時勢を感じるなぁ。
( 2011年12月10日 09:25 )
人間七七四年 | URL | -
時勢?
( 2011年12月10日 09:39 )
人間七七四年 | URL | -
長州閥が幅を利かせてる時勢ですからね
( 2011年12月10日 10:47 )
人間七七四年 | URL | -
城将にも杉原家次がいたの?
( 2011年12月10日 12:38 )
人間七七四年 | URL | -
>>12 の「時勢」の意味が分からなかったんで、グーグルで少し調べてみたら
蜂須賀家記って、江戸後期編纂・明治初期に刊行されてる資料なんだね。(ソースはWiki)
明治の時代は、主に薩摩・長州藩の出身者が国政を握っていたから、この資料自体が
そうした世情を考慮して世に出されたものかもしれないってこと、なのかな。
( 2011年12月10日 20:26 )
※13でごんす | URL | -
ありがとう。
しかしそれ思うと、本当に信用に足る資料って少なそうだね。
( 2011年12月10日 22:45 )
人間七七四年 | URL | -
まあ、こういう資料って、大体当事者たちの死後数年(下手したらこれみたく数百年)後に作られたか、当事者の一族もしくは当事者と関係の深い人物が作ったか、の印象あるからなぁ
蜂須賀さんは秀吉と関係深い人物だからまだマシな方だけど
資料の乏しい武将とかだと、その数少ない資料で固定概念植え付けられそう
( 2011年12月10日 23:27 )
名無しさん@ニュース2ちゃん | URL | -
宮本武蔵「資料ならまだよい。下手すると小説がイメージの全てだったりするからな」
前田慶次「下手するとマンガが・・・・・・」
直江兼続「下手すると大河が・・・・・・」
毛利元就「下手するとBASARAが・・・・・・」
森長可「下手すると実話が・・・・・・」
( 2011年12月11日 11:23 )
人間七七四年 | URL | -
鬼武蔵の逸話が一番信用出来るってことかよw
( 2011年12月11日 11:28 )
人間七七四年 | URL | -
いや、そこは「アンタは実話なんだから事実だろ!」と突っ込むべきじゃないか(お笑いのオチ的な意味で)
( 2011年12月11日 12:41 )
人間七七四年 | URL | -
俺だったら、宮本武蔵に「あんたは確信犯だろ」って突っ込むね
戦国猪木め
( 2011年12月11日 16:59 )
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