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水野勝成の弟、水野忠胤

2011年12月10日 22:00

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/10(土) 00:14:26.40 ID:+b9WMFoa
これは悪い。オチ的にも。

> 87 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/12/09(金) 21:52:35.70 ID:Xw/UPtzD
> 水野勝成の弟
> 水野 忠胤
> 水野忠重の次男として生まれる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、
> 兄の水野勝成と共に東軍に与して美濃曽根の砦の守備や大垣城攻めで功績を挙げた。
> このため、三河国内で1万石を与えられた(与えられた年は恩栄録によると関ヶ原の
> 直後と思われる)。
> こうして大名として三河水野藩(藩庁所在地などは不詳とされる)を立藩する。
> その後、従五位下・市正に叙位・任官し、大番頭に任じられた
> (ただし、柳営補任には大番頭になったと記されていない)。
> 慶長14年(1609年)9月29日(徳川実紀では9月1日)、
> 遠江浜松藩主・松平忠頼を自宅に招いて茶会を開いていたが、
> 忠胤の与力である久米左平次と服部半八郎の両名が囲碁
> (もしくは武道)の勝敗をめぐって口論、そして刃傷事件にまで
> 及んでしまったのである。この争いを見て忠頼は両名の仲裁に入ったのだが、
> 逆にその仲裁に切れてしまった左平次が、よりにもよって忠頼を殺害してしまったのである。
> さらに徳川実紀では、忠胤が伏見城番を務めていたとき、配下の番士による悪行を取り締まれなかったこともあったという。
> これらの理由から、10月16日に忠胤は家康より切腹を命じられた。同時に三河水野藩も改易された。
> 子の水野勝信は正室との間に生まれ、兄の勝成に引き取られて養子となり、後に徳川忠長に仕えた。





322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/10(土) 01:01:14.90 ID:1TDr5i3J
最後の最後で吹いちまったじゃねーか

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/10(土) 01:23:20.63 ID:MLlvCnhk
ピンポイントに貧乏くじ引いてくなW

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/10(土) 03:18:09.40 ID:WbwlfvNm
Wikipediaの丸写しかよw



341 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/12/12(月) 00:13:47.34 ID:LVYOB98f
Wikipediaの丸写しだが勝成のもう1人の弟もかなりのもんだ

水野忠清(天正10年(1582年) - 正保4年5月28日(1647年6月30日))は、江戸時代前期の大名。
上野国小幡藩主、三河国刈谷藩主、三河国吉田藩主、信濃国松本藩初代藩主。沼津藩水野家初代。
水野宗家19代で三河刈谷を領した水野忠重の四男。備後福山藩初代藩主水野勝成の弟。正室は前田利家の娘。
子は水野忠次(長男、早世)、娘(京極高三正室)、娘(山内忠直正室)、水野忠職(次男)、娘(土方氏久正室)、
祖活(僧となる)、水野忠増(四男)、娘(有馬康純正室)、娘(菅沼定実正室)、水野忠顕(五男、水野忠貞養子)。
三河国刈谷に生まれる。慶長5年(1600年)、父が加賀井重望に殺された後、水野氏の家督は兄の勝成が継ぎ、
忠清は徳川秀忠の家臣として仕えることとなった。同7年(1602年)、上野小幡に1万石の所領を与えられて大名となり、
同年、従五位下に任官し隼人正を名乗った。同10年(1605年)には書院番頭に任ぜられ、また奏者番を兼ねた。
慶長19年(1614年)からの大坂の役では冬、夏の両陣とも参戦し、元和元年(1615年)の夏の陣では敵将・大野治房を破るという大功を挙げた。
この際青山忠俊と行賞をめぐって争い、謹慎を命じられたが、翌2年徳川家康死去の寸前に謹慎を解かれ、父忠重の過去の功績と大坂の役の軍功により、
三河刈谷に移封された。
寛永9年(1632年)に2万石を加えられて三河吉田4万石に移封され、
同19年1642年には信濃松本7万石に加増移封された。正保4年、江戸にて死去。享年66。
法号:真珠院郭誉全忠。墓所:東京都文京区小石川の伝通院。
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    勝信君、忠長に仕えて一難去ってまた一難…

    諸行無常にて候…

  2. 人間七七四年 | URL | -

    親子そろって勝成さんに運を吸われたんじゃないかと思ってしまうレベル

    …結構いるよね、片方がやたら幸運でもう片方がやたら不幸な兄弟って

  3. 人間七七四年 | URL | -

    正室が信長の娘なんだよね
    この辺、当時の水野家がどういう扱われ方だったのかよくわかる
    でもって、息子の勝信は血統的には
    秀忠とははとこにして、信長の孫と言うすごい血統

    でもって、正室の於振姫は忠胤が亡くなったあと
    今度はお江と別れた佐治一成の継室に

    兄貴が戻ってくるまでは順風満帆だったのにね、この家族

  4. 人間七七四年 | URL | -

    米2
    両方(又は全員)不幸な兄弟だと、滅多な事では後世に名が残らないじゃないかw

  5. 人間七七四年 | URL | -

    ※4

    安心「実の兄に殺されるんじゃないかと・・・それで帷子・・を・・・うぅ」

    星友「冗談キツいぞこやつめ、ハハハ。帷子で毒は防げないだろう?(笑)なーんて嘘じゃ、さぁ茶を飲もう。」

  6. 人間七七四年 | URL | -

    長宗我部さんちの兄弟と最上さんちの弟妹が何か言いたそうです>不運兄弟

  7. 人間七七四年 | URL | -

    宗麟「不運兄弟とは、余所は大変だのう。……弟?はてさて、何の事やらさっぱりじゃ」
    塩市丸・義長「………(怒)」

  8. 人間七七四年 | URL | -

    大関「兄弟の内、三人もいれば誰かは不幸になる」
    大田原「そういう点では我々は幸運でしたな」

    福原「…俺だけ大名になれなかったのは誰のせいじゃ?」

    那須家一同「おまえらが運不運を語るな」

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