7 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/12/16(金) 01:03:18.27 ID:CQPWop3i
佐々成政にまつわる、地元の伝承。
天正11年(1583年)4月。賤ヶ岳で羽柴軍と柴田郡が激突していた頃。
成政は兵を越後に向け、糸魚川付近の数城を攻め落とした。
「このまま春日山まで攻め上がろう」、成政は意気込んだ。
だが、簡単に物事は進まないのが常。
成政の越中不在に乗じて、弓之庄城主・土肥政繁が越中で挙兵し、
佐々方の数城を陥れたとの報が入ってきたのである。
成政は急遽兵を越中にとって返し、弓之庄城を大軍で包囲した。
この際成政は、「通説」では土肥軍の士気を下げるために、
政繁の次男・平助を城から見せる距離で磔刑に処したという。
この行為に対する後世の評価はすこぶる悪い。
wikipediaにもあるように、作家の海音寺潮五郎は
「このような残虐な手口に頼るようでは人心掌握に長けた秀吉に対抗するのは無理」と手厳しい。
ところが、富山県にはこの磔刑の続きとなるお話が存在する。
天正13年(1585年)、秀吉に降伏した成政は
新川郡を除く越中所領をすべて召し上げられた。
この時、新川郡のほぼ中心に位置する弓之庄城に入った成政は、
入城以来、一人である墓所に頻繁に通ったという。
そう、2年前に弓之庄城を包囲した際に磔にした平助の墓である。
天下分け目の賤ヶ岳合戦が繰り広げられているその時。
「自分は本国さえ手中に収めきれていない」。
そうした焦りが当時の成政に、磔刑を決意させたのかもしれない
時は戦国とはいえ、残酷な仕打ちを行ったことを悔やんでいた成政は、
その後大坂に行くまで、何度も手を合わせに平助の墓に花を手向けたという。
8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/16(金) 11:35:15.21 ID:pA2EQ9vb
ヤンキーが捨て猫を拾ったらいい人扱いみたいな・・・
9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/16(金) 12:15:14.17 ID:00Sec9i4
政治的手段としての磔
個人の意向としての墓参り
全く別の次元のものだからなあ
そもそも磔が政治的手段として成功してたかはあれだけど
10 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/16(金) 13:27:56.43 ID:Xc9z9sap
焦って処刑した事を後悔したのかな
佐々成政にまつわる、地元の伝承。
天正11年(1583年)4月。賤ヶ岳で羽柴軍と柴田郡が激突していた頃。
成政は兵を越後に向け、糸魚川付近の数城を攻め落とした。
「このまま春日山まで攻め上がろう」、成政は意気込んだ。
だが、簡単に物事は進まないのが常。
成政の越中不在に乗じて、弓之庄城主・土肥政繁が越中で挙兵し、
佐々方の数城を陥れたとの報が入ってきたのである。
成政は急遽兵を越中にとって返し、弓之庄城を大軍で包囲した。
この際成政は、「通説」では土肥軍の士気を下げるために、
政繁の次男・平助を城から見せる距離で磔刑に処したという。
この行為に対する後世の評価はすこぶる悪い。
wikipediaにもあるように、作家の海音寺潮五郎は
「このような残虐な手口に頼るようでは人心掌握に長けた秀吉に対抗するのは無理」と手厳しい。
ところが、富山県にはこの磔刑の続きとなるお話が存在する。
天正13年(1585年)、秀吉に降伏した成政は
新川郡を除く越中所領をすべて召し上げられた。
この時、新川郡のほぼ中心に位置する弓之庄城に入った成政は、
入城以来、一人である墓所に頻繁に通ったという。
そう、2年前に弓之庄城を包囲した際に磔にした平助の墓である。
天下分け目の賤ヶ岳合戦が繰り広げられているその時。
「自分は本国さえ手中に収めきれていない」。
そうした焦りが当時の成政に、磔刑を決意させたのかもしれない
時は戦国とはいえ、残酷な仕打ちを行ったことを悔やんでいた成政は、
その後大坂に行くまで、何度も手を合わせに平助の墓に花を手向けたという。
8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/16(金) 11:35:15.21 ID:pA2EQ9vb
ヤンキーが捨て猫を拾ったらいい人扱いみたいな・・・
9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/16(金) 12:15:14.17 ID:00Sec9i4
政治的手段としての磔
個人の意向としての墓参り
全く別の次元のものだからなあ
そもそも磔が政治的手段として成功してたかはあれだけど
10 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/16(金) 13:27:56.43 ID:Xc9z9sap
焦って処刑した事を後悔したのかな
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コメント
人間七七四年 | URL | 0Q3WCu86
安易にこういう手段に頼ってしまったのは、純粋に悪い話だと思う。
( 2011年12月16日 23:02 [Edit] )
人間七七四年 | URL | -
ラスボス「残酷な刑罰を用いるなど人の道に外れるわ!」
( 2011年12月16日 23:57 )
人間七七四年 | URL | -
見せしめをやらなければ離反者が続出するかも知れないし難しい所だな
( 2011年12月17日 00:34 )
人間七七四年 | URL | -
秀吉自体小田原攻めで同じようなことやってるし、状況次第でしょ。
この磔で別の反乱を招いたなら失敗だろうが、ただ秀吉が勝った事に対して後付けで評価するのはむりがある。
( 2011年12月17日 01:16 )
あ | URL | -
>「このような残虐な手口に頼るようでは人心掌握に長けた秀吉に対抗するのは無理」
海音寺さん、秀吉のことはあんまり知らないんだな
( 2011年12月17日 01:17 )
人間七七四年 | URL | -
秀吉も残虐な手段に頼ってた、じゃなく
秀吉に残虐な趣味があった、ということにすれば解決だな!
耳鼻削ぐのも趣味
( 2011年12月17日 03:37 )
人間七七四年 | URL | -
つまり残虐性が足らないんだ やるんならもっと強い恐怖を与えるような事をやれば人心掌握なんて簡単なんです
( 2011年12月17日 08:22 )
人間七七四年 | URL | -
そして残虐な手口が、いずれ手段ではなく目的に…
( 2011年12月17日 08:48 )
人間七七四年 | URL | -
北陸軍の一員として散々一向宗攻撃して来て、今更子供一人でって
気もしないでも無いが、武将の一面としては成政の人となりが分か
る逸話だと思うし、こう言う手段を使わなければならなかったのが
悲しく感じる。
( 2011年12月17日 11:22 )
名無しさん@ニュース2ちゃん | URL | -
小牧・長久手の合戦において、成政も娘を秀吉に磔刑にされてるよね。
もしかしたら、そこで「自分も同じことをしたんだ・・・・・・」と罪の意識を感じるようになったのかも・・・・・・
と想像してみる。
( 2011年12月17日 12:33 )
人間七七四年 | URL | -
戦国武将であろうと心の底から人殺しを楽しんでいたわけではない。
主家のため、一軍の武将として、やらなきゃいけない。
でも実は個人的には…ってエピソードでしょう。
悲しい中間管理職みたいだな
( 2011年12月18日 11:54 )
人間七七四年 | URL | -
人質差し出しておいて裏切るわけだから、裏切った本人も人質が殺されるのは覚悟の上だろう。それが戦国。だから当時成政が批判されるようなことはなかったはず。この逸話は聞いたことないし後世のつくり話臭い
( 2011年12月18日 23:24 )
人間七七四年 | URL | -
逸話ってのは作り話も含まれる物じゃ無かったのか???
( 2011年12月20日 16:20 )
人間774年 | URL | -
>>*7
鬼武蔵さん。こんな所で何やってはるんですか?
( 2011年12月20日 23:02 )
人間七七四年 | URL | -
鳥居強右衛門(ガタッ)
( 2013年04月03日 21:03 )
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