fc2ブログ

徳川家康と一ノ宮城の本多百助・いい話

2008年11月24日 00:01

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/23(日) 20:11:02 ID:xyvDeahL
永禄七年(1564)、徳川家康はついに今川と断交する。

これに怒った今川氏真は、二万余という大軍を率い、徳川家譜代、本多百助の籠もる
東三河、一ノ宮城を包囲した。
岡崎城の家康はすぐに駆けつけようとしたが、家臣たちの猛反対を受ける。

「敵は大軍、それに対して我が方は三千しかおりません。それに酷な話ですが、一ノ宮城は
今の徳川家にとって重要な城とは申せません。
本多のかたがたも、百助を見捨てる事は納得しておられます。どうかここは、涙をのんで
諦めて下さい!」

しかし家康は言った

「一ノ宮城を落とし、あの城に百助を入れたのはわしだ。そうしておいて今更、
敵が大軍だからと言う理由で見捨てるような、そんな道理があるか?

主君が危機の時は家来が助け、家来が危機になれば主君が助ける。これが武門の習いではないか。
百助を救いに行く事でこの家康が斃れるなら、むしろ本望である。」

これを聞いて岡崎衆は、心を一つにした。
一ノ宮城を囲む今川の大軍に、錐のような突撃をかけ、その壁を突き破り一ノ宮城にたどり着いた。
そうして百助ら籠城衆を回収すると、城を捨て一目散に岡崎城へと帰って行った。

徳川家康、この時22歳。


家康はその後の人生の中で、家臣を見殺しにせざるを得なくなることも、また、あえて見捨てる事もする。
だが、家臣たちは、こういった家康の姿を知っていたからこそ、彼に付いて行ったのだろう。


ちなみにこの本多百助、後世、「上杉には川田監物信親あり、福島正則には長尾隼人、
武田信玄には山県三郎兵衛尉昌景、そして徳川家康には本多百助正広あり」と、呼ばれ
勇将として天下に名をはせ、良く家康の覇業を助けた。




693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/23(日) 22:50:46 ID:4DfvUJpd
というか見たことある。

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/24(月) 07:57:50 ID:lxsolRII
>>693
長生きしてるんだね。

695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/24(月) 08:00:14 ID:oqo/Se5c
リアルタイムで見てんのかwww
朝から声上げて笑っちまったじゃねーかwww
スポンサーサイト





コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    本多信俊かな?

コメントの投稿

(コメント編集・削除に必要)
(管理者にだけ表示を許可する)

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://iiwarui.blog90.fc2.com/tb.php/608-bd3826c6
この記事へのトラックバック