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土屋昌恒の大演説

2012年01月05日 22:00

280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/05(木) 15:41:32.78 ID:ymtgiK8i

よし、知名度の低さ払拭のために、ちょっと、手元史料から逸話をまとめてくるノシ




281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/05(木) 17:25:04.42 ID:ymtgiK8i
土屋昌恒の大演説(1)

武田家が長篠で手痛い敗戦を喫した際、敗走する武田勝頼の傍から離れることなく警護した土屋昌恒
その忠義を賞されて、戦死した兄土屋昌続と義父土屋貞綱の遺領と同心衆を共に引き継ぐことを認められ、
更に勝頼の側近として取り立てられて重く用いられることになった。
このとき、昌恒はまだ19歳(数えで20歳)。

幼い時から英明で知られた昌恒は、バリバリ仕事をこなし、
内政官としてもその手腕を発揮していった。
しかし、いかに昌恒が優秀であったとしても、まだまだ若年・若造に過ぎず、
信玄代からの重臣で、出頭人と呼ばれた跡部勝資の権勢には遠く及ばなかった。

それから、約10年が経ち、いよいよ昌恒がその本領を発揮できる歳になった頃には、
武田家は幾多の外交的失策を重ね、昌恒がいかに一人頑張ろうとも
すでに挽回不可能な状況に陥っていた。

そして、天正10年、木曽義昌の寝返りから始まった織田信長の武田征伐により、
武田家家臣団はあっという間に瓦解。
武田勝頼主従は、一門衆小山田信茂を頼って本拠地新府城から甲斐郡内の岩殿城へ向かうが、
先行して態勢を整え、迎えを寄越すはずの小山田から一向に連絡が来ない。
やむを得ず武田家宿縁の地天目山に逃れようとした勝頼主従は、天目山の麓、田野あたりで、
一帯が戦場になることを嫌った地下人を引き連れた武田家臣大熊備前守、甘利左衛門尉、
秋山摂津守らに鉄砲を撃ちかけられる。
時を同じくして、小山田信茂は既に勝頼を裏切り、関を閉ざして郡内への入領を阻んでいるとの報が入る。

ここで武田勝頼に対していつものように忠言する跡部勝資を見ていた土屋昌恒が口を開く。

続きます

282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/05(木) 17:27:13.85 ID:ymtgiK8i
土屋昌恒の大演説(2)


跡部勝資「お館様。小山田が裏切ったからには、郡内への逃亡は不可能になりました。
     ここは、地下人たちの目をなんとかくらまして、天目山に逃れ一旦情勢を窺うべきです。」

これを聞いた昌恒は、他の者が発言する前に、勝頼に向かってこう述べた。
「私のような若輩者が発言するのは角が立つかもしれませんが、このような最悪の状況下においては、
 その者の年齢ではなく、その者の心が剛であるか否かでご判断ください。
 尾張守(跡部勝資のこと)様のおっしゃることはちょっと未練がましいとしか言いようがありません。
 こういう無分別な考え方こそが、今の最悪の状況を招き、
 武田家が滅亡の憂き目に遭っている原因に他なりません。
 よくよく分別をわきまえてください。

 数代に亘る家臣の小山田出羽守(信茂のこと)が敵となり、天目山の地下人にさえ背かれては、
 どんな鉄城鉄山に籠城したとしても、生き永らえられるとは到底思えません。
 侍は、死すべき時に死ななくては恥というもの。
 当家の祖、八幡太郎義家も侍は死すべきところを知るが肝要と言葉を残されております。

 たとえ兵が少なくなったといえども、新府城に留まって敵を迎え撃ち、
 命の限りに矢が尽き刀折れるまで戦った後
 一門ひとつの場所で腹を召されてこそ、武田の武名を顕し、
 信玄公以来の武勇の程を示せたというものです。
 それを人の道に反する小山田なんぞを頼ってここまで逃げ、身分卑しき者の手にかかって、
 御一門の屍を山野に晒すのは、後代までの恥辱だとは思いませんか?

 戦の勝敗は時の運ですので、戦って負けることは恥のようであっても実は恥ではありません。
 ただ戦うべき時に戦わず、死ぬべき時に死なないのは武門に傷をつけるものです。
 とある書に曰く、進むべき時に進まないのを臆病な将(臆将)といい、 
 引くべき時に引かないのを暗愚な将(闇将)といいます。
 とすれば合戦おける進退とは、結局のところ分別工夫によるものと言えます。

 ところが、尾張守(勝資)のおっしゃることは軽率で分別がないとしか言いようがありません。」

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/05(木) 17:34:58.02 ID:ymtgiK8i
土屋昌恒の大演説(3)


これまで昌恒には色々と溜まっていたものがあったのだろう。
ここでついに思いの丈を、怒りをにじませながら、終いには悲涙を流しながら言上する。

「…この期に及んでこんなことを申し上げてもしょうがないが、
 このまま胸の奥に仕舞っておくのも無念なのであえて言わせていただく。

 先年、越後にて景虎と喜平次(上杉景勝の事)が争ったとき、
 そこにいらっしゃる方々は欲をかいて黄金を欲しがり、
 景虎に対して不義となる判断をしたために、天下に悪名を広め、諸人から嘲りをうける結果となりました。

 そのため、武田家と北条家は同盟が崩れ、相互に怨敵とみなすことになり、
 ついには、このような状況にまで至ってしまいました。

 かつては、そこにいる方の邪欲によって当家は窮地に陥りました。
 そして今回、小山田を始として恩顧の侍達が、我らを見放しましたが、
 全ては、そこにいらっしゃる方の無分別な助言に起因します。

 敵は余所にいるのではございません。」

この言葉を聞いた跡部尾張守(勝資)は、一言も返答できず、赤面して平伏したという。

その後、覚悟を決めた勝頼主従は、織田方に対して最後の攻撃を仕掛けることとし、
昌恒は40騎ばかりを率いて死にもの狂いで突撃し「数千騎の敵を東西南北へ切散す」戦いぶりを見せた。
そして勝頼夫妻が無事自害したことを聞き届けると、
「人切りたるが面白サに、大将の御伴を外れるのは残念だ。
 さて皆の衆、最後の一戦をして、腹でも切るか」と言って、敵の大軍に向かって切っ先を並べて切り込み
一歩も引かず、戦場に屍が横たわり血が川のように流れるまで戦い、一人残らず討たれたという。



以上、軍記物のなかでは比較的信憑性が高いといわれる甲乱記より適当訳で。

ちょっと血生臭いけれど、バラバラになっていた主従が、最後の最期で一丸となった良い話?ということで。
長文失礼しました。




286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/06(金) 00:23:04.10 ID:5b5gkNPV
>>281-283
乙にござる

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/06(金) 00:42:02.93 ID:qrdv8HGD
昌恒さんは非の打ち所のない立派な武士だ

でもどさくさにdisられる勝資さんカワイソス
最後までなんとか可能性を探るのもそれはそれで一つの見解だと思うし

288 名前:281[sage] 投稿日:2012/01/06(金) 01:30:55.58 ID:8suojzJK
あ、昌恒が兄と義父を相続したときの年齢、よく考えたら間違えてた…
当時16歳じゃなく19歳(数えで20歳)でした。すみません、訂正します。

>>287
結果論になっちゃうけど、あと3か月耐えれば、本能寺の変で信長が死ぬから、
勝頼はともかく信勝は、跡部勝資の助言に従って逃がしておいた方が良かったかもしれない。
でも、同じ甲乱記によれば、信勝は死の直前に
「ただ妄念なるは、新府城で信長を待ち受けて討死すべきところを、
臆病者どもの異見によってここまで逃げてきたのは残念だ」
とか言っちゃってるから、信勝も武士としては立派だけど、脱出ルートは無理筋みたい。

289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/06(金) 01:36:34.63 ID:Cv9UI7oY
武田の完全滅亡がなければ信長信忠に光秀の行動も変わるのだから
三ヶ月たっても本能寺が起こるとは限らない

290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/06(金) 01:45:52.66 ID:fIYQS0EC
ああ、軍記物ではあるが、土屋昌恒ってのはそこまでの武士だったのか。

そうしてから>>271を見ると、「周りとうまくいかず」ってのも分かるね。

二十歳そこそこで一国に関わる大仕事していたら、それは気負いすぎてもしきれないくらいの辛さだろう。
責任感もものすごい重圧だろうし、他人に対して尊大な態度を取ってしまうのも分かる。

それで、どんな大事な仕事をしていても楽な仕事だと思えと言ったのかな。
臆病でもいいってのは、臆病と呼ばれても命を大事にって意味かも。
つらいなあ。

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/06(金) 01:51:13.97 ID:d7QqeiGu
家を背負うって大変なんだな
もうちょっとニートで頑張るか

292 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/01/06(金) 01:59:41.35 ID:9TxS8Mu8
>>276 >>280-283
ありがとう、勉強になった。先ほどは失礼。

片手千人斬りの逸話にばかり眼が行きがちだけれど、全てにおいて秀でた逸材だったんだな。
唯一足りなかったのが年齢(≒キャリア)だったのが泣ける >>276 >>280-283
ありがとう、勉強になった。先ほどは失礼。

片手千人斬りの逸話にばかり眼が行きがちだけれど、全てにおいて秀でた逸材だったんだな。
唯一足りなかったのが年齢(≒キャリア)だったのが泣ける (´;ω;`)
逸話を読むにつけ、もっと早く生まれていればと思わざるを得ない。
逸話を読むにつけ、もっと早く生まれていればと思わざるを得ない。

293 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/01/06(金) 02:01:49.21 ID:9TxS8Mu8
ごめん、ミスったorz

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/06(金) 02:02:33.62 ID:UGXA6SpJ
>>292
感動したのは色々二度言いました状態になってるので良く分かるが、
少し落ち着けw


295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/06(金) 02:03:58.16 ID:fIYQS0EC
ワロタwww

296 名前:281[sage] 投稿日:2012/01/06(金) 02:06:20.07 ID:8suojzJK
こんだけありがとうって何度も言われたの、久しぶりだw

297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/06(金) 02:07:28.44 ID:16H/n99M
どうしてこうなったwww

その昌恒から敬愛されるかがみんも凄いが、
この人は武田滅亡の折どうしていたんだ??

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/06(金) 02:14:59.12 ID:fIYQS0EC
加賀美正行(3)を待て


と言いたいところだが
正行が「加々見長門」と同一人物なら、法善寺城で徳川方と戦い生害、と記述にぐふっ!!
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コメント

  1. T.H.Y | URL | XmHeyEnw

    管理人さん。お世話になっております。
    これを投稿した者です。
    向こうでも書いたんですが、>>281で昌恒が両土屋家を相続したときの年齢を
    間違えて記載してしまったので、出来れば
    「16歳」→「19歳(数えで20歳)」に訂正しておいてくださいませんでしょうか?
    知名度の低さ払拭のために書いたのに、初歩的なミスが残っていると恥ずかしいので。

    あと、できれば「戦働き以外でも割と活躍していた・加賀美正行」の
    280も同様に直していただけるとありがたく存じます。
    お手数おかけしますが、どうぞよろしくお願いいたします。

  2. まとめ管理人 | URL | wZ.hFnaU

    ※1
    直しておきましたー

  3. 人間七七四年 | URL | -

    忠臣はやはり見てて気持ちが良いな

  4. T.H.Y | URL | XmHeyEnw

    管理人さん。
    お手数おかけいたしました。
    早速のご対応ありがとうございました。

  5. 人間七七四年 | URL | -

    跡部さん集中砲火カワイソス。
    跡部佞臣説が取られてしまうのは、やはり跡部さんが
    勝頼陣営の主だった者の一人だからなのだろうか?

  6. 人間七七四年 | URL | -

    武田は八幡太郎系じゃなくて新羅三郎系だろ

  7. T.H.Y | URL | XmHeyEnw

    >>6
    その突っ込みあると思った。

    原文では、「御当家の曩祖八幡太郎義家のお直文にも~」と記載してあって、
    曩祖(のうそ)=先祖、祖先、だからそのまま「祖」と訳しちゃったけど
    おっしゃるとおり、武田家の祖は義家の弟新羅三郎義光だから
    実際の血筋は義家と繋がってない。
    ただ、ここは実際の血筋がどうこうってよりは、河内源氏の嫡流って意味での先祖
    と捉えるべきではないかしらん。
    例えば、今上天皇が「天武天皇」を先祖と呼んでも、
    多分違和感そんなにないと思うけど、それと同じような意味合いで。
    武田家が河内源氏の嫡流か、って点では史学的には議論があるだろうけど
    自分たちは当然嫡流あるいはその系譜に連なる者だと自負していただろうし。

    あと、ここでは訳さなかったけどこのあとに、
    「御筆の跡今こそ思ヒしられて候へ」と続くから、
    実際に義家伝来の書が、武田家に伝えられていたのかもしれない。

  8. 人間七七四年 | URL | -

    遅かったという感は否めないけど、最後にひと花を咲かせる形になったから「格好いい」のボタンを押しておきます。

  9. 人間七七四年 | URL | -

    >武田家が河内源氏の嫡流か、って点では史学的には議論があるだろうけど
    知らんかった
    もっと勉強しないあかんなーオレ

  10. 人間七七四年 | URL | -

    大作乙。
    知らないだけでマイナー武将でもこんなカッコイイ武将がたくさんいたんでしょうなあ

  11. 名無しさん@ニュース2ちゃん | URL | -

    正直実話とは思えないですが、乙です。
    土屋惣蔵ともあろうもののふがいまわの際に
    こんな内部分裂おこしそうな事を言ったとは思えないし、
    甲越同盟もまるっきり頓珍漢な判断とも言い難い。
    徳川家康の覚えも目出度い男だった故、
    江戸初期に持ち上げの為に作られた話だと思う。

  12. 人間七七四年 | URL | -

    はいはい、佞臣佞臣

  13. 人間七七四年 | URL | -

    >>※11
    こんな古いコメに突っ込むのもなんだけど
    甲乱記の一番古いバージョンは天正期に書かれたことがほぼ確実視されていて
    しかも武田氏滅亡直後に書かれた可能性もあるとされているから
    この話の真偽はともかく、この逸話が江戸期の創作ってことはないよ

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