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その後のスケベエさん

2012年02月25日 21:52

69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/25(土) 14:53:38.68 ID:Ro53h6Zl
その後のスケベエさん

関が原の戦いの際、佐竹家の動向を徳川家康に問われた花房助兵衛職之(職秀)は、「佐竹は動かない」という
見解を示したが、『見解について起請文を書け』との要求を断って「あやつは気が利かぬ」と
家康の不興を買ってしまい
大名への出世の機会を逃した。(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-214.html


十数年の歳月が過ぎた大阪冬の陣。
茶臼山に本陣を構えた大御所・家康は、輿に乗って配下を叱咤する老人の姿を眼に止めた。

「あの老武者を見よ!もはや足が萎え果て、馬にも乗れぬゆえ輿に乗っているのであろうに、あの姿勢、声の張りは
ヘタな若武者どもをしのぐわい。いったい何者だ?」
「ああ、あれは助兵衛殿ですな。」
「助兵衛?助兵衛・・・すけのひょうえ・・・花房助兵衛か!まだ健在であったか!!」

関が原の戦いの後、八千石を給され、備中高松に陣屋を構えた花房家は今回、池田忠継の寄騎として
参加を命じられたが、齢六十も半ばを過ぎんとする助兵衛は、嫡男に任せず自ら出陣して来たのだ。

「さすが助兵衛。日々武辺を心がけた者は、あの齢で出陣しても見事な武者ぶりよ。大剛の者と言うべし。」

将としては評価できなかったものの、老いてなお盛んな助兵衛に感心した家康は、池上本門寺の僧になっていた
助兵衛の次男を還俗させ、徳川四天王・榊原家の養子として榊原飛騨守職直と名乗らせ、将軍秀忠の直属に置いた。
(忠士清談・徳川実紀他)

助兵衛は大坂夏の陣後に世を去っていますが、その後、長崎奉行等を歴任した職直は知行二千五百石の
大身旗本に出世しています。これに本家の知行を合わせると一万五百石。
万石を目指した助兵衛の悲願は死後に達成された、というのは言い過ぎでしょうか。

・・・え?「島原の乱」?「抜け駆け」?な、何のことやら拙者にはさっぱり・・・・・・





71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/25(土) 15:38:01.32 ID:FU7Yeoyp
いい話かと思ったら、余計な最後の一行がw
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    榊原職直って助兵衛さんの子供だったんか。
    康正の子孫は血の気が多いなぁと思っていたが、やっと納得行った。
    それにしてもお父さんと一緒で将に将たる器じゃねーな。

  2. 人間七七四年 | URL | JalddpaA

    こういう歴史上での出来事と出来事が繋がる瞬間というのは気持ちがいいね
    ヒストリエの岩明均先生も言及している楽しさだ
    人伝に聞くだけでこんなに楽しいのだから自分で史料を読み解いて
    そういった体験をすることはどれだけ良いものなのかと羨ましくなるね

  3. 人間七七四年 | URL | -

    有名な話だけど未出だったんだね

  4. 人間七七四年 | URL | -

    抜け駆けは勝茂だけじゃなかったのか。しらんかった

  5. 人間七七四年 | URL | JalddpaA

    >>管理人様
    タグに「榊原職直」を追加してはどうでしょうか?

  6. まとめ管理人 | URL | wZ.hFnaU

    ※5
    ご指摘ありがとうございます。追加しておきましたー

  7. 人間七七四年 | URL | -

    ※4

    やる夫スレで得た知識で申し訳ないが
    鍋島勢の抜け駆けを防ぐために軍目付にしたこの人が真っ先に抜け駆けしてしまったために
    見捨てて討ち死にさせまいと鍋島勢が引きずられたみたいな形に描かれてたなぁ

  8. 人間七七四年 | URL | -

    6歳上の家康にこんなこと言われて気恥ずかしかったろうな
    なんなんだ家康

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