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唯一、殿が付いている家臣

2012年02月26日 21:51

77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/26(日) 17:03:23.98 ID:jPMcixWe
天正16年に毛利輝元が上洛した際に、各大名に贈物をした時の記録があるが、
この中では大名には殿を付、その家臣は呼び捨てにしているが唯一、殿が付いている家臣がいた

それは本多忠勝、二木謙一氏はこれを誤記としているが、後世の有名ぶりを見れば忠勝の名は
この当時、既に知れ渡っていたと考えるのも面白い

なお、樣を付けたのは大政所、秀長、信雄というのも面白い話であろう




78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/26(日) 20:32:22.46 ID:suiKo8Os
信雄さん、その頃は内大臣とかで一応まだ大事にされてたんじゃないのかな~
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    田舎大名はやっぱり上洛するたび配って回って当然だったのかな
    北条も土産物調うまでちょっと待ってって言ってるし

  2. 人間七七四年 | URL | -

    大名だと挨拶行くにも調整いりそうだから目処がたたないとうごけなさそうだよなあ

  3. 人間七七四年 | URL | -

    地道に勇名を上げたのか、武田の落書きがそれほど広まったのか。

  4. 人間七七四年 | URL | -

    >大名へ挨拶
    豊臣・徳川体制ともなれば各地域の大名が参集していただろ
    うから、挨拶回りだけでも重労働だったのでしょうかね?

  5. 人間七七四年 | URL | m.2.LkcQ

    当時、秀吉が平八つぁんの武勇伝を盛んに喧伝してたからだろ?
    そんでソレを恩に着せて、家康から引き抜いて直参にしようとしてた。
    輝元は素直だから、そーゆー裏事情が読めず
    「そんな凄い人なら他家の陪臣でも『殿』付けしなきゃ」って思ったんじゃね?
    もっと穿った取り方すれば
    「この人もうすぐ家康から独立して豊臣直参になるんだよね」的な意味合いで殿付けなのかも。
    まあ、もっとも忠勝ほどの戦歴と武勇伝を持ちながら怪我したコト無いってのは、
    当時としては個人的武勇を超えた『神がかり的な幸運』と言えなくもないので、
    「俺もあやかりたい」というファン感情としての『殿』付けなのかも。

  6. 人間七七四年 | URL | -

    そういう理由なら井伊直政にも付けたんじゃない?
    武将としての名声だけじゃなくて外交官としても活躍してたし、この頃大名並の従五位下侍従の官位も得ていた。
    秀吉のお覚えもかなり良かったはずだよ。

  7. 名前がない | URL | -

    んで、この時政宗はどう書かれていたの?やっぱ「政宗」だけ?

  8. 人間七七四年 | URL | -

    まだ奥羽で暴れ回ってたんじゃなかった?
    小田原の前だし。

  9. 人間七七四年 | URL | -

    ※6
    一応、この年の直政の官位は輝元と同じ従四位下だよ
    他には長宗我部元親、蒲生氏郷、池田輝政、前田利長、京極高次、森忠政、織田信秀、細川忠興などと同位

  10. 人間七七四年 | URL | -

    ご指摘ありがとうございます。
    しかし従四位下とは本当に大名並ですね。
    まだ関東移封前なんで所領もそこそこと思っていたけど凄いなあ。

  11. 人間七七四年 | URL | -

    直政は天正15年8月に侍従、天正16年4月11日に※9の諸侯ら20人
    (他には織田一族、秀秋、堀秀政、大友義統、筒井定次等)と一緒に
    従四位下に叙さられている。
    天正16年4月というと後陽成天皇の聚楽第行幸があった年で
    忠勝も家康に随行しているから輝元の上洛もこの時のものだと思う。
    多分、直政は陪臣としては只一人列席しているのもあるから
    大名の位置付け「殿付けだった」ので良いのでは?

  12. 人間七七四年 | URL | -

    ※11
    羽柴姓の「羽」の出所でもある織田四天王丹羽長秀の嫡男・長重を略してくれるな
    まあ鍋島直茂も大名となっても従五位だったし従四位下は大名でも格上だよ

    忠勝は他の大名の家臣と違って殿を付けなきゃならん実績と威厳があったんだろな
    つか大名の家臣でも殿を付けるのは当たり前じゃねえのか?

  13. 人間七七四年 | URL | -

    個人的な感覚で言えば陪臣でも官位持ちは殿付けでいいと思うんだよな。
    それだけ秀吉の覚えめでたいってことだし、形式的には同じ天皇の臣下ってわけだし。
    それなのに直政は呼び捨て、忠勝は殿付けってことはそれなりの理由があったはずだし、
    その理由ってのを考えると※5の「豊臣直参になるんだよね」が一番的確な気がする。

  14. 人間七七四年 | URL | -

    ※13
    いや、直政呼び捨てとは書いてない

  15. 人間七七四年 | URL | -

    ※6です。
    おそらくこのソースは「輝元公上洛日記」だと思うんですが、確認してみたら直政はでてこないみたいです。
    お騒がせいたしました。
    内容は近代デジタルライブラリーより検索したら、インターネットからも読めます。
    もし見落としだったら、二重にごめんなさい。
    あと、忠勝の殿付ですが、この日記事態が上洛時に輝元に従っていた平佐就言のものなので、毛利家中での共通意識なのか個人的に尊敬していたためなのかはちょっとわかりません。
    ただ、このときの贈物の内容が宇喜多家の明石さんや、藤堂高虎など殿付になってない人たちと比べて差があるようにも思えないので平佐さんの尊敬の気持ちから出たのかとも思えました。

  16. 人間七七四年 | URL | -

    なるほどな

    ところで石田三成はこの時点では従五位下だったけど
    生涯で従四位下に叙された記録ってあるのかな?

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