401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/21(水) 23:20:03.39 ID:P6cgc9cP
文明15年、播磨に侵攻した山名政豊は、これを手中に収めたかと思われた。
しかし同17年になると追い落とされていた赤松政則が復活し、蔭木城が陥落するなど山名方は
次第に劣勢に立たされていった。
そんな山名方を窮地に追い込んだのは吉川経基の活躍だった。
「初代鬼吉川」「俎吉川」の異名を持つ稀代の猛将が、赤松方の援軍として参陣したのだ。
赤松政則は、吉川家が梶原景時追討の功で得ていた播磨国福井荘、山名に脅かされていたこの荘園の代官職を
戦費としてあてがうことでその援護を得ていたのである。
文明19年正月、追い詰められた山名政豊は強く願った。
「わしも援軍が欲しい!絶対に欲しい!」と。
政豊はまず、甥である細川政元を通じて将軍家を動かそうと考え、家臣・垣屋越中守と村上左京亮を
京に派遣した。
垣屋・村上の両名は「山名・赤松の戦いを私闘と見なして介入しないという将軍家の方針を改めること」
「山名方に援軍を出すこと」を細川家臣・安富ら3人に対し連日連夜、切々と訴え続けた。
が、細川政元の赤松方への肩入れもあって、色よい返事が返ってくることはなかった。
そこで二人は、公正なことで知られる政所執事・伊勢貞宗邸に赴いて、貞宗に訴えてることを考えた。
自分たちの言い分が将軍の耳に達するよう、貞宗の使者と、その口添えを得ようというのだ。
「垣屋らが到着する前に貞宗を説得せよ。山名に同調させてはならぬ。」
細川政元は、安富らを伊勢邸に急行させた。
安富らは「赤松家の忠節ぶり、誰がそのことを知らざるや」と説いて貞宗の心をつかみ、政元の期待に
応えたのである。
さて、垣屋・村上がやってきた。
貞宗は安富らを先に部屋に招き入れ、垣屋らを門の外に待たせておいて、安富らと酒宴をはじめてしまった。
山名家の二人がようやく召されたのは、その酒宴もたけなわとなった頃である。
その場はもはや訴訟なんぞできる状態ではなく、二人は大酒宴に酔っ払ってただ帰るほかなかった。
402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/21(水) 23:22:25.73 ID:P6cgc9cP
「むぅ、正攻法では無理か・・・。ならばわしの華麗な策略で援軍を出させてやろう!」
その頃、備中に勢力を張る細川家の家臣・庄春資の甥の朋輩で、山名家にも近しい山田という男がいた。
山名政豊は彼に目を付けると、あろうことか細川政元の使者に仕立て上げて庄春資の屋敷に下し、密かに
「京兆(政元)は山名への合力のため、備中の庄の軍勢を播州へ呼び寄せることにした。」と言わせたのだ。
すると庄春資は、一族の庄伊豆守に山名政豊救援を厳命し、その軍勢を播州へ進発させたのである。
「してやったり!」ほくそ笑む政豊であった。
とはいえ、策が策である。
某SLGじゃあるまいし、まさかこんなのが成功するとは思えない。
案の定、庄春資と一緒にいた、とある武将に計略を見抜かれてしまった。
「政元様は山田という男を知らず、顔も見たことが無いはずだ!彼の軍勢呼び寄せの密談、
信用するに足らぬのではないか?」
疑念を抱いた彼は政元に仔細を尋ねてみたところ、
「かようなこと夢にも知らぬことである!それに山田いう者はいったい誰であるのか!!」
はたして、推量どおりの言葉が返ってきたのである。
彼の建白を受けた庄春資は、播州に向かっていた軍勢を撤兵させた。
(蔭涼軒日録)
援兵を得られなかった山名勢はますます劣勢となっていった。
そして長享2年、山名政豊は夜陰に紛れて書写坂本城を脱出、赤松政則の追撃で多数の死者を出しながら、
辛うじて但馬に撤退することになる。
かくして7年に及ぶ政豊の播磨攻めは完全な失敗に帰したのである。
403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/22(木) 12:36:29.16 ID:Kyp00Ij6
とある武将が実は若き日の○○だった、というオチだと思ったら違った
文明15年、播磨に侵攻した山名政豊は、これを手中に収めたかと思われた。
しかし同17年になると追い落とされていた赤松政則が復活し、蔭木城が陥落するなど山名方は
次第に劣勢に立たされていった。
そんな山名方を窮地に追い込んだのは吉川経基の活躍だった。
「初代鬼吉川」「俎吉川」の異名を持つ稀代の猛将が、赤松方の援軍として参陣したのだ。
赤松政則は、吉川家が梶原景時追討の功で得ていた播磨国福井荘、山名に脅かされていたこの荘園の代官職を
戦費としてあてがうことでその援護を得ていたのである。
文明19年正月、追い詰められた山名政豊は強く願った。
「わしも援軍が欲しい!絶対に欲しい!」と。
政豊はまず、甥である細川政元を通じて将軍家を動かそうと考え、家臣・垣屋越中守と村上左京亮を
京に派遣した。
垣屋・村上の両名は「山名・赤松の戦いを私闘と見なして介入しないという将軍家の方針を改めること」
「山名方に援軍を出すこと」を細川家臣・安富ら3人に対し連日連夜、切々と訴え続けた。
が、細川政元の赤松方への肩入れもあって、色よい返事が返ってくることはなかった。
そこで二人は、公正なことで知られる政所執事・伊勢貞宗邸に赴いて、貞宗に訴えてることを考えた。
自分たちの言い分が将軍の耳に達するよう、貞宗の使者と、その口添えを得ようというのだ。
「垣屋らが到着する前に貞宗を説得せよ。山名に同調させてはならぬ。」
細川政元は、安富らを伊勢邸に急行させた。
安富らは「赤松家の忠節ぶり、誰がそのことを知らざるや」と説いて貞宗の心をつかみ、政元の期待に
応えたのである。
さて、垣屋・村上がやってきた。
貞宗は安富らを先に部屋に招き入れ、垣屋らを門の外に待たせておいて、安富らと酒宴をはじめてしまった。
山名家の二人がようやく召されたのは、その酒宴もたけなわとなった頃である。
その場はもはや訴訟なんぞできる状態ではなく、二人は大酒宴に酔っ払ってただ帰るほかなかった。
402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/21(水) 23:22:25.73 ID:P6cgc9cP
「むぅ、正攻法では無理か・・・。ならばわしの華麗な策略で援軍を出させてやろう!」
その頃、備中に勢力を張る細川家の家臣・庄春資の甥の朋輩で、山名家にも近しい山田という男がいた。
山名政豊は彼に目を付けると、あろうことか細川政元の使者に仕立て上げて庄春資の屋敷に下し、密かに
「京兆(政元)は山名への合力のため、備中の庄の軍勢を播州へ呼び寄せることにした。」と言わせたのだ。
すると庄春資は、一族の庄伊豆守に山名政豊救援を厳命し、その軍勢を播州へ進発させたのである。
「してやったり!」ほくそ笑む政豊であった。
とはいえ、策が策である。
某SLGじゃあるまいし、まさかこんなのが成功するとは思えない。
案の定、庄春資と一緒にいた、とある武将に計略を見抜かれてしまった。
「政元様は山田という男を知らず、顔も見たことが無いはずだ!彼の軍勢呼び寄せの密談、
信用するに足らぬのではないか?」
疑念を抱いた彼は政元に仔細を尋ねてみたところ、
「かようなこと夢にも知らぬことである!それに山田いう者はいったい誰であるのか!!」
はたして、推量どおりの言葉が返ってきたのである。
彼の建白を受けた庄春資は、播州に向かっていた軍勢を撤兵させた。
(蔭涼軒日録)
援兵を得られなかった山名勢はますます劣勢となっていった。
そして長享2年、山名政豊は夜陰に紛れて書写坂本城を脱出、赤松政則の追撃で多数の死者を出しながら、
辛うじて但馬に撤退することになる。
かくして7年に及ぶ政豊の播磨攻めは完全な失敗に帰したのである。
403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/22(木) 12:36:29.16 ID:Kyp00Ij6
とある武将が実は若き日の○○だった、というオチだと思ったら違った
スポンサーサイト
コメント
人間七七四年 | URL | -
なんか安富さんは赤松派ですね。浦上則宗と親しいからか…。
( 2012年03月23日 15:15 )
コメントの投稿