慶長五年七月三〇日付真田昌幸宛石田三成文書の一節
「会津征伐に向かった大名達は自分たちが挙兵したと聞いて、家康のもとを離れて帰国しているようですが、美濃・尾張で
秀頼様にしっかり忠誠を誓っているか一人一人、調べる予定です」
「今年の暮から、来年の春に関東の家康を討伐するために畿内から西の大名に動員をかけています。八月中には近江に
集結させて、兵糧米を与えた上で各方面に派遣する予定です」
取らぬ狸の皮算用がもの凄いことになっている
13 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/04(金) 17:37:48.52 ID:FjlMaFMg
>>8
田丸さんぐらいしか戻って来てない(それも本当か怪しい)w
14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/04(金) 17:41:09.34 ID:GaGL5wUB
関ヶ原の時の島津義弘の書状で、関東から誰も帰ってこないことに慌てて西軍首脳部が大阪城で
緊急会議開いた、というのがあったな。
どうも三成始め西軍は、大阪城を抑えたら家康の会津攻めの軍勢はすぐに崩壊すると考えていたっぽい。
15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/04(金) 17:45:26.02 ID:+HAa1Kgd
秀吉の晩年の乱行のせいか、建前以上に豊臣家万歳している大名なんて少数派だったしね。
さすが三成、計算はできても心情には疎かった……。
コメント
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この書状を見る限り、三成は家康に従ってた豊臣譜代が挙兵後は家康から離れるから
家康は史実のような急戦は出来ず、関東に割拠すると読んでみたいだな。
要するに豊臣譜代の連中の動向を読み違えて、全部後手になったということか。
( 2012年05月04日 00:06 )
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皮算用というよりは一種の情報戦略なのではないかとも思うが、この前の三成の書状の話や関ヶ原前の逸話を見る限りには味方を増やすための方便などではなく本気だった可能性もあるのが三成らしいところだよね
( 2012年05月04日 00:07 )
人間七七四年 | URL | mQop/nM.
※2
秀頼様のことを思うならお前らもちろん俺に挙兵するよなみたいな圧力かもしれへん
秀頼のこと悪いようにいえるわけないのはどの大名も同じだし
( 2012年05月04日 09:22 [Edit] )
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こんな事書いてたら書状奪われるわw
使者に口伝はさせなかったのかな?
( 2012年05月04日 11:04 )
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やっぱり本人の花押とか印鑑が無いと信用性にかけるから書状しかなかったんじゃないかな?
( 2012年05月04日 11:10 )
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単に口伝ですませれるような内容じゃないからかと思うが。
しかし三っちゃんやる気満々だなw
( 2012年05月04日 13:30 )
人間七七四年 | URL | -
自分も文章の内容自体は情報戦の類じゃないかなと思いますね。
でも、当時の三成さんは本当にあの状態の仲(文治派対武断派)
であっても、秀頼君の名前出せば皆付いて来てくれると思って
たのかな?自分を襲った連中ですよ?w
( 2012年05月04日 13:43 )
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※7
自分なら過去の経緯を水に流して主君のためにはせ参じる
彼らもそうに違いない(キリッ
三成ならこんな感じではw
( 2012年05月04日 20:59 )
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本スレ>>14
本気で戻ってくると思ってたんかいw
( 2012年05月04日 21:11 )
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>本気で戻ってくると思ってたんかいw
小山評定まで諸大名が動揺していたことを考えればあり得ない話でもない。
家康直下でそれだから各地で情報を受けた大名の衝撃はそれ以上だろうし。
史実の結果は家康と武断派の方が一枚上手だったということだろう。
( 2012年05月06日 13:32 )
人間七七四年 | URL | -
そーいや義弘さん自身伏見城の戦いまでは西軍派じゃなかったんだっけ。
五大老二人がついてたし勢力的には可能性があったわけか。
しかし最初から予想外の展開ではその後は綱渡りになりそうだな。
それぞれ思惑抱えた諸大名をよく本戦まで持たせたとも言えるのか。
( 2012年05月06日 17:06 )
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