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長宗我部元親の初上洛の顛末とその影響

2012年06月15日 21:00

919 名前:1/2[sage] 投稿日:2012/06/15(金) 19:39:48.53 ID:SOUk2O/k
天正13年(1585)の10月はじめ、土佐の長宗我部元親は家老たちの反対をあえて聞かず、
秀吉への臣従のため上阪した。

10月20日浦戸を出港し、程なく堺の港につく。そこで津田宗及の屋敷を宿舎とすると、
ここに羽柴美濃守(秀長)と藤堂与右衛門(高虎)が来訪。秀長は「早々の上洛に、秀吉卿は
御感に思召しておられます。」と伝え、大阪出仕の支度をするよう促した。
藤堂高虎はこの堺から案内として元親に同道した。

大阪に入ると町家で装束を整え登城。桜の門に入ると警固のものが50人、金棒を持って左右に
並び、元親の共の者たちを
「これより先、小姓一人、草履取り一人のみしか同道出来ぬ!」
と押し留めた。これに共をしていた長宗我部家臣団は激昂。
「こんな事は見たこともない!主の供をするのを一体誰が止めるというのか!?」と
大声で叫んだ。この騒ぎを聞いた高虎は警固のものに
「長宗我部の共の衆なら問題はない。入れてやるのだ。」と云えば、警固の者共は金棒を引いて
彼らを門内に入れた。

ここで羽柴秀長が迎えに罷り出て、元親と同道し奥の間に通らせた。ここで高虎は立ち戻り、
「共の衆はここに居よ」と、彼らを侍所に連れて行った。

元親は小袖20,馬代銀百枚、一文字の太刀一腰を進上し秀吉に御礼を申し上げる。
秀吉は対面を許し、「長宗我部早々上洛、感じ入るぞ」との御意を伝え饗膳を下し、
「美濃守(秀長)、施薬院(全宗)相伴せよ」と言って、自分は奥へと下がった。

さてここで元親の前には、七五三の膳部、金銀の造花、京堺の魚鳥、そういった珍しいものが
尽きることがないほど出されて来た。元親は四国の主であったが、このような膳部は見たこともなかった。
正直ビビっていたがそれでも臆せぬ体でこれを賜り、酒を数回やりとりしていると
秀吉卿が再び現れ「長宗我部の折角の上洛だというのに、肴も出していないではないか!」と、
さらに元親の度肝を抜かせる事をいう。これを施薬院を通して聞かされた元親は、「この長曾我部、
結構な膳部を頂きました、有難き幸せ。」と挨拶をし、秀吉は盃を取るとこれを元親に下し、
元親は頂戴して酒を賜った。

このあと元親に引き出物が出され、腰の物(二尺五寸備前兼光)、黄金百枚、梨地の鞍鐙をつけた鬼葦毛の馬、
などが下される。そして秀吉は言う

「長宗我部は酒も数盃となり、酔も出ただろうが珍しい肴があるのだ、もう一献参られよ。
珍しい肴とはな、その方が上洛するというのを、家老たちがそれは無用だと止めただろう?だがその方一人の
覚悟によって上洛をした、と、わしは聞いておる。

この上はお前が人質に出した津野孫次郎(親忠・元親三男)を返してやる。これを肴に、さあ、
もう一献参られよ。」

元親「かたじけなし」と、それを飲み干した。

元親は明日京に上り羽柴秀次に御礼申し上げる予定であったが、秀吉はそれも免除し、すぐに津野親忠と共に
帰国することを許した。翌日、元親親子は堺を出港した。


920 名前:2/2[sage] 投稿日:2012/06/15(金) 19:40:59.85 ID:SOUk2O/k
元親が帰国すると、土佐の侍町人たちはこれを出迎え、口々に千秋万歳を叫び喜んだ。
翌日、元親は城に家中の者たちを集めると今回の上洛の次第を語り、そして下賜されたもののうち、
最初に太刀を見せた。

「なんと!金で装飾されている!?」土佐者たちは早くも仰天した。

次に黄金百枚を見せた。

「これが判金という物ですか…。はなしには聞いたことがありますが、初めて見た。」

としげしげと眺めていた。そして最期に葦毛の馬に鞍を置いて出すと土佐者たちの驚愕は頂点に達した

「上方という国は一体どんな国なんだ!?こんな馬が存在するなんて!!」

彼らにとって馬といえば、体高一寸ほどの土佐駒であった。上方から来た五寸の馬を見て、
舌を震わせて驚いたのも、仕方のない事であろう。
そして梨地の鞍鐙を見て

「これ光ってる!どうして!?」

などと騒いだ。全く田舎者にも程がある事である。

ところで津野親忠は人質として長く上方に逗留していたので、御供衆まで上方めいた男になって帰ってきた。
これに土佐の者たちは羨み。月代の剃り方から服装まで、土佐の者たちは一斉に真似をした。

それまで土佐の者たちは着物を小袖といい、袖は短く綿をたくさん入れ、帯ははいはたと言う木綿帯をして、袴の
裾も短く、その姿はモグラのようであった。
月代は大きく剃りあげ、刀は三尺ほど、脇差は二尺ほどもある物を差し、顔には武勇を貼り付けていた。

しかしながらそんなモグラ侍を上方侍に見比べると、そのあたりで暴れてるガキ大将すらそんな異風な者はいない。
津野親忠の共の衆に皆習い、着物の脇をすき、袴や袖を長くすれば、男ぶりも良くなり、土佐者たちは
その姿を鏡で見て大いに喜んだという。

翌年、元親が再び上洛した時は、みな上方風の服装をしていた。
この時長宗我部家の諸侍はより合って先年のことを話し、大笑いしたという。

以上、長宗我部元親の初上洛の顛末とその影響、である。
(土佐軍記)




921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/15(金) 21:12:14.44 ID:C/Wz0oVj
酷い田舎者(´・ω・`)

928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/15(金) 22:01:56.01 ID:InXLPFz0
>>920
体高一寸…土佐駒とやらはエオヒップスか何かか!?

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/15(金) 22:29:54.20 ID:9jvgbY92
>>928
 四尺一寸と四尺五寸の四尺が省略されてるんだろう

930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/15(金) 22:43:54.05 ID:DnS5F/ik
手乗り馬かわいい

932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/15(金) 23:03:28.23 ID:jkSOzJsf
>>919-920
秀吉の人たらしっぷりには毎度関心させられる

長宗我部の奴らも、田舎者丸出しでダサさ全開の昔の自分達を
こうやって省みて記録に残せるっていうのはある意味いい話なのかも

935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/15(金) 23:13:36.53 ID:STIaeafI
四国征伐中にも上方の軍勢は金ぴかだし馬もでかいしマジ無理だから降伏しようって言ってる家臣いたよね

936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/15(金) 23:19:26.46 ID:6SKDqa6T
私です。

940 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/16(土) 01:11:30.27 ID:Dxanh6MH
>>919-920
いつ饅頭が出てくるかと思いながら読んでいたw

956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/16(土) 10:03:17.59 ID:J5R7cgVf
>>920
土佐っぽ田舎者すぎてかわいいwww
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

  2. 人間七七四年 | URL | -

    氏政「やれやれ上方を知らぬ田舎武将は」

  3. 人間七七四年 | URL | -

    上洛じゃなくて上坂……。それにしても土佐は土佐一条家があったはずなのにひどい扱いだなぁ。

  4. 人間七七四年 | URL | -

    南部信直「田舎が一番です。…国に帰りたい…」

  5. 人間七七四年 | URL | -

    信長「薄味の京料理など喰えるか?」

  6. 人間七七四年 | URL | JalddpaA

    これ田舎者ワロスwwっていうエピソードだと思ってたけど
    元親さんの頭とか教養のレベルなら国力の違いってのを悟っちゃって
    エアマスターでいう50手?先を読んでしまった悲しい将棋指し状態になっちゃったのかなーと今思った

  7. 人間七七四年 | URL | -

    長宗我部の扱いはひどすぎる…
    こういうのから津野親忠の名声が上がって、関ヶ原の時の暗殺事件に発展するのかな?

  8. 人間七七四年 | URL | -

    一寸の土佐駒 ‥3㎝じゃないよね?

  9. 人間七七四年 | URL | -

    「多芸に驕るべからず、深く、狭く」って言ってる割には多趣味なんだよね、元親wwww

  10. 人間七七四年 | URL | -

    >>※8
    「凡そ馬のたけは四尺を定めとす。されば四尺あるをば尺といい、それより一寸(すん)高きをば一寸(き)という。ニ寸あるをばニ寸という。……四尺の馬をば世のつねの馬とするがゆえに是を小馬といい、四尺五寸あるをば中馬といい、五尺を大馬という。」
    (『古今要覧稿』)
    川合康センセの本に書いてあった。

  11. 人間七七四年 | URL | -

    ( ●Д゚)「京は楽しいな。もう1ヶ月以上いるぜ。」
    ( ´_ゝ`)「そろそろ帰国したら、どうですか?」
    ( ●Д゚)「俺がいつ帰ろうと勝手だろうが、ボケ!!」


    ( ´_ゝ`)「あー伊達殿。将軍家から言付けです」
    ( ●Д゚)「何だ。言ってみな」
    ( ´_ゝ`)「『満足するまで京都観光していいよ』だそうです」
    ( ●Д゚)「ああ。俺、充分京都観光したからもう帰るわ」

  12. ※8 | URL | -

    ※10様ありがとうございます
    手乗りサイズだったら可愛かったのにと想像してみました。

  13.   | URL | -

    こういう事を子細に書き留めてる事に感謝だね
    すごく興味深い

  14.   | URL | -

    そーりんも大坂見て仰天してるし、ゴージャス主義は田舎大名への効果絶大だなあ

  15. 人間七七四年 | URL | -

    この逸話の長宗我部や東北等の田舎の大名は都会に対し恥じ入る態度を取るのに
    なんで薩摩の奴らは
    ’やっぱ都会の奴らは軟弱でダメだ。俺達こそが武士だ!’
    って態度がでかくなるんだろう?

  16. 人間七七四年 | URL | -

    煽ろうとしちゃダメー

  17. 人間七七四年 | URL | -

    京都人すら仰天させて伊達者と褒めやかされた奴はそれ考えるとすげーよな
    誰のことかは伏せておくけど

  18. 人間七七四年 | URL | -

    ※15
    薩摩は明・琉球と古くから貿易してたし、唐人町が領内に点在し明人・朝鮮人が居住してたくらいなので、そちらの代物を見慣れてた為に、上方のものを珍しいと思わなかったのかも。

    馬も、貴久の頃にトカラ馬と輸入したサラブレッド種の交配に成功しているくらいなので、大きい馬もとっくに見知ってた筈。

  19. 人間七七四年 | URL | -

    ※10
    ほう…。
    自分も気になってたので、助かりました。
    やはりまだまだ勉強が足りぬ…。

  20. 人間七七四年 | URL | mQop/nM.

    ※18
    そりゃアラブ種、ペルシャ種とかの中近東系だろう。
    サラはイギリスの土着の牝馬とアラブ・トルコ系の種馬との交配種だし、生まれたのが江戸中期。
    アラブ種なら五尺、サラなら五尺半ってことになるから、やっぱり小さいな。
    源平時代の馬は、アラブ種よりちょい小さいくらいだから、土佐は小型化した(させた)のかな。

  21. 人間七七四年 | URL | SFo5/nok

    ※18
    サラブレッドて時代的におかしい。
    アラブ系の馬ってこと?

  22. 人間七七四年 | URL | -

    土佐は細川分家が守護だった時代も長く、また船による上方との往来も多い。
    長宗我部時代においてもツテや情報収集はかなり濃密だったはず。
    上層部には情報として上方の様子はかなり詳細に入っていたと思われる。
    だが、土佐侍が大げさに上方文化に驚く様が大坂に伝わるのは、臣従する長宗我部家にとって秀吉の心証を良くする事はあっても悪くはしないだろう。
    また下級中級武士は純粋にカルチャーショックを受けただろうし、元親本人でさえ、例え色々聞いていても実際に見るとでは驚きも大きく違ったのも事実だろう。

  23. 猫好きな名無しさん | URL | -

    上方の流行をどんどん取り入れていく様は日本人っぽいな
    馬は四国では小ぶりの方が量産しやすかったんじゃないの?
    四国全体が他地方よりもまして山がちだし

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