あるいは、とらねばならなかったと言うお話

2012年06月29日 21:01

229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/29(金) 13:20:32.73 ID:uHRpgtHv
天正十四年ころから「世間物騒の時分」につき、あれやこれやと上方対策を始めていた後北条氏だが、
天正十五年に入ると、正月に小田原城、五月には上野の箕輪城と松井田城、
一〇月武蔵岩付城、十一月箱根の山中城、足柄城と領国全土で普請を始めていた。
上杉、佐竹に加え、天正十四年十月に秀吉に臣従した徳川と、
全方面からの攻撃が予想されたからであった。

しかしそんな普請で忙しい最中のはずの天正十五年五月、
武蔵の各地では北条氏邦や氏房の命令で、堰や堤の構築が行われていたりもする。

実はこの時期、上記普請の連発のためか、北条領国内では退転欠落が続発していた。

「御国の御用につき」と言う理屈で百姓を動員していた北条だが、
一方で懐柔策もとっていたと言うお話。
あるいは、とらねばならなかったと言うお話。



230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/29(金) 14:23:37.93 ID:itjA/vHi
無様だなぁ

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/29(金) 16:37:21.52 ID:+6+KYZzv
「猿wwww」「成り上がりふぜいがwwww」とかいって
余裕ぶっこいてた連中よりはまし

232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/29(金) 16:59:21.95 ID:TJpXzbS6
一庶民に対して国のために戦えっていうのは、近代以降の概念だからなー
数百年ばかり速すぎた、北条は未来に生き過ぎた

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/29(金) 20:19:45.23 ID:aPDrTFXH
善政を敷いてたのが仇になったか
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    織田に従ったら上野取り上げられたうえに武田攻めの情報もらえなかった

    羽柴は初っぱなから滅ぼす気満々

    こんな状況で上方信用する方が無理

  2. 人間七七四年 | URL | -

    たしかになあ
    後世の人は結果が分かってるから好きなように叩けるけど
    一概に北条側の判断ミスを攻めて暗愚呼ばわりされがちなのは
    情勢が情勢だけにちと可哀そうかもねえ

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