816 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/11/29(土) 23:04:59 ID:wLiGhTck
腹切岩
筑前国に秋月氏と言う豪族がいた。秋月氏は機を見て毛利、
大友、竜造寺、島津と恭順を重ね、自領を保っていた。
戦国の末、豊臣秀吉は九州制覇を志し、大軍を率いて西下していた。
この時、秋月家当主、秋月種実の命を受け家臣、恵利暢尭は、敵情
視察のため広島まで出向いたのであったが、秀吉軍の装備の素晴らしさ
を目の当たりにして大いに驚き、急ぎ帰って和睦の賢なることを勧めた。
だが秀吉軍の力を侮った種実は「さても暢尭、臆病な事よ。はや秀吉の
家臣となったか。」と嘲り、他の重臣達も暢尭を笑い飛ばした。
己の言が受け入れられぬと悟った暢尭は、妻と子供を城の側にある大岩に
集め、「もはや秋月もこれまで」と妻子を刺殺し、自らも切腹。諌死した
のである。享年三十八歳の若さであった。
ほどなくして秋月種実は、秀吉にひざを屈する。待っていたのは、必死に
守り抜いてきた先祖伝来の地、筑前秋月より日向財部への転封であった。
転封が決まり、その地を離れる事になった種実は、恵利暢尭一家が諌死した
大岩の前で下馬し、落涙しつつ手を合わせて去っていったと言う。
後年、筑前黒田藩藩主、黒田長與は恵利暢尭の忠節を称え、大岩の近くに
鳴渡観音建立した。今も大岩は「腹切岩」と呼ばれ、秋月城の側にひっそり
と佇んでいる。
817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/29(土) 23:08:37 ID:Lg06I3sC
>>816
うーむ、良い話・・・のような気もするな
818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/29(土) 23:19:22 ID:9LeTvMWu
>>816
部下の進言を聞かない、悪い上司の顛末って事か。
819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/30(日) 00:06:41 ID:USPqsPIG
いい話の匂いがするぜぇ
820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/30(日) 00:09:43 ID:TgJ0zPdG
書き方次第でいい話にも悪い話にも。
恵利切腹→秋月転封で筆を下ろしてれば文句無しに悪い話。
最後まで書いたのは>>816の人の良さ
821 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/30(日) 00:15:20 ID:JhZGIOWw
でも秋月もがんばった方だよな
中国地方と九州地方が入り乱れる北九州で
しっかりと生き残り、勢力を地道に拡大している
九州征伐時の判断ミスが悔やまれる
822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/30(日) 00:19:58 ID:USPqsPIG
>>821
うん
あの位置で残ったのは普通に凄い
しかも江戸も最期まで家名存続してる
823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/30(日) 00:20:13 ID:WjKPijrF
やっぱり先祖代々の地って意識すると、どうしても愛着がわくよなあ
824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/30(日) 00:32:43 ID:TasmC73r
秋月は後に江戸時代最高峰の人物を輩出してるしな
そんな彼が偉人足り得たのは秋月家で受けた教育が大きかった
825 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/30(日) 00:36:17 ID:AT92ERyD
逆に立地は恵まれてたのに滅んだ北条、三好はアホだな
826 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/30(日) 00:41:32 ID:nqrYyq6/
>>816
一応訂正、黒田長興は筑前秋月藩(本家黒田藩の支藩)の藩主です。
…もしかして黒田だから黒田藩でいいのかも?そうだったらすみません。
黒田長政の息子で、忠之の弟ですね。
黒田長政は亡くなる時、この長興と、その弟高政にそれぞれ五万石と四万石を 分けて与えました。
一説によると長政は嫡男忠之の放埓な性格を危惧していて、本藩が万が一
改易ということになっても家が残るように支藩を作ったということです。
この長興は遊び好きで怒りっぽかった忠之と違い温厚で沈勇の人だったと
言われ、長政は忠之を廃嫡して長興にあとを継がせたかったらしいのですが、
家臣の反対もあって実現しませんでした。
こういった経緯もあって長興を警戒していた忠之は、父の遺命に背いて
長興を家臣並の立場に留めたく思い、独立した藩主として将軍に直接
お目見えするのを阻止しようとしました。
五万石を十万石にしてやるなどの甘言も用いたのですが、長興とその
家臣団は承知しませんでした。
そこで忠之は自身が江戸に参勤する際、長興をなんとしても秋月に留めるよう
自分の家臣たちに命じて国を出たのですが、長興は正月で見張りの気が緩んだ
隙をついて少数の家臣だけを連れて小舟で国を脱出。
江戸にたどりついて一年間の雌伏の後ついに将軍家光に拝謁を果たし、晴れて
本家から独立性の強い支藩の藩主としての立場を確立します。
黒田忠之の往生際が悪い話。
827 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/30(日) 00:41:56 ID:jmeNcU6s
この流れは宇都宮家滅亡と黒田官兵衛・長政親子の話をだせ!・・・ということか
と思ったが、既出だっけ・・・
828 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/30(日) 00:44:20 ID:0FqizbSX
>>824
上杉鷹山のことか
831 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/30(日) 00:56:52 ID:TasmC73r
>>828
ンだす
腹切岩
筑前国に秋月氏と言う豪族がいた。秋月氏は機を見て毛利、
大友、竜造寺、島津と恭順を重ね、自領を保っていた。
戦国の末、豊臣秀吉は九州制覇を志し、大軍を率いて西下していた。
この時、秋月家当主、秋月種実の命を受け家臣、恵利暢尭は、敵情
視察のため広島まで出向いたのであったが、秀吉軍の装備の素晴らしさ
を目の当たりにして大いに驚き、急ぎ帰って和睦の賢なることを勧めた。
だが秀吉軍の力を侮った種実は「さても暢尭、臆病な事よ。はや秀吉の
家臣となったか。」と嘲り、他の重臣達も暢尭を笑い飛ばした。
己の言が受け入れられぬと悟った暢尭は、妻と子供を城の側にある大岩に
集め、「もはや秋月もこれまで」と妻子を刺殺し、自らも切腹。諌死した
のである。享年三十八歳の若さであった。
ほどなくして秋月種実は、秀吉にひざを屈する。待っていたのは、必死に
守り抜いてきた先祖伝来の地、筑前秋月より日向財部への転封であった。
転封が決まり、その地を離れる事になった種実は、恵利暢尭一家が諌死した
大岩の前で下馬し、落涙しつつ手を合わせて去っていったと言う。
後年、筑前黒田藩藩主、黒田長與は恵利暢尭の忠節を称え、大岩の近くに
鳴渡観音建立した。今も大岩は「腹切岩」と呼ばれ、秋月城の側にひっそり
と佇んでいる。
817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/29(土) 23:08:37 ID:Lg06I3sC
>>816
うーむ、良い話・・・のような気もするな
818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/29(土) 23:19:22 ID:9LeTvMWu
>>816
部下の進言を聞かない、悪い上司の顛末って事か。
819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/30(日) 00:06:41 ID:USPqsPIG
いい話の匂いがするぜぇ
820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/30(日) 00:09:43 ID:TgJ0zPdG
書き方次第でいい話にも悪い話にも。
恵利切腹→秋月転封で筆を下ろしてれば文句無しに悪い話。
最後まで書いたのは>>816の人の良さ
821 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/30(日) 00:15:20 ID:JhZGIOWw
でも秋月もがんばった方だよな
中国地方と九州地方が入り乱れる北九州で
しっかりと生き残り、勢力を地道に拡大している
九州征伐時の判断ミスが悔やまれる
822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/30(日) 00:19:58 ID:USPqsPIG
>>821
うん
あの位置で残ったのは普通に凄い
しかも江戸も最期まで家名存続してる
823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/30(日) 00:20:13 ID:WjKPijrF
やっぱり先祖代々の地って意識すると、どうしても愛着がわくよなあ
824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/30(日) 00:32:43 ID:TasmC73r
秋月は後に江戸時代最高峰の人物を輩出してるしな
そんな彼が偉人足り得たのは秋月家で受けた教育が大きかった
825 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/30(日) 00:36:17 ID:AT92ERyD
逆に立地は恵まれてたのに滅んだ北条、三好はアホだな
826 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/30(日) 00:41:32 ID:nqrYyq6/
>>816
一応訂正、黒田長興は筑前秋月藩(本家黒田藩の支藩)の藩主です。
…もしかして黒田だから黒田藩でいいのかも?そうだったらすみません。
黒田長政の息子で、忠之の弟ですね。
黒田長政は亡くなる時、この長興と、その弟高政にそれぞれ五万石と四万石を 分けて与えました。
一説によると長政は嫡男忠之の放埓な性格を危惧していて、本藩が万が一
改易ということになっても家が残るように支藩を作ったということです。
この長興は遊び好きで怒りっぽかった忠之と違い温厚で沈勇の人だったと
言われ、長政は忠之を廃嫡して長興にあとを継がせたかったらしいのですが、
家臣の反対もあって実現しませんでした。
こういった経緯もあって長興を警戒していた忠之は、父の遺命に背いて
長興を家臣並の立場に留めたく思い、独立した藩主として将軍に直接
お目見えするのを阻止しようとしました。
五万石を十万石にしてやるなどの甘言も用いたのですが、長興とその
家臣団は承知しませんでした。
そこで忠之は自身が江戸に参勤する際、長興をなんとしても秋月に留めるよう
自分の家臣たちに命じて国を出たのですが、長興は正月で見張りの気が緩んだ
隙をついて少数の家臣だけを連れて小舟で国を脱出。
江戸にたどりついて一年間の雌伏の後ついに将軍家光に拝謁を果たし、晴れて
本家から独立性の強い支藩の藩主としての立場を確立します。
黒田忠之の往生際が悪い話。
827 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/30(日) 00:41:56 ID:jmeNcU6s
この流れは宇都宮家滅亡と黒田官兵衛・長政親子の話をだせ!・・・ということか
と思ったが、既出だっけ・・・
828 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/30(日) 00:44:20 ID:0FqizbSX
>>824
上杉鷹山のことか
831 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/30(日) 00:56:52 ID:TasmC73r
>>828
ンだす
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コメント
秋月藩黒田家「若年寄」 | URL | U7CTLDyk
>>826
初めて投稿いたします。
「秋月藩黒田家は、「黒田長政」の三男「長興」が初代藩主。
福岡本藩から立藩し、後に三代将軍「徳川家光」に拝謁、江戸城にて御側付等の役
をこなし家光に認められ「朱印状」を拝領。
その後、天皇に拝謁、天皇より「黒田甲斐守」の称号と「位記」「口宣案」を拝領し、
江戸幕府の一藩となった。」が正しいかと。
スミマセン。若年寄の独り言ですので・・・。
( 2010年08月15日 13:40 [Edit] )
人間七七四年 | URL | -
別に北条も三好も恵まれた土地ではなかったでしょ。
そもそも、有力大名の間を行ったりきたりして領土を広げてく真田みたいなタイプと
有力大名どうしで合戦や調略で領土を広げてく信長みたいなタイプを一緒にするのは筋違いじゃない?
北条だって前者の宗瑞、後者の氏政で
三好も前者の長慶、後者の義継であって
後者のタイプが簡単に従属したり、旗色変えたりは出来ないよ。
あと北条の最初の根拠地は山地の多い伊豆。
三好の最初の根拠地は近畿と四国の中間地の淡路島。
( 2011年04月12日 07:52 )
人間七七四年 | URL | -
聞く限り秋月とやらは相当な外道だったようなので、最後の落涙って部分は創作かなと思います
( 2014年08月06日 04:42 )
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