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牧野成里というややこしい経歴の武士がいる

2012年08月06日 20:52

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/06(月) 14:57:44.50 ID:IWBy3ccG
牧野成里というややこしい経歴の武士がいる。
その経歴の複雑さはhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5455.htmlここにも出ているが
それがどんなものであったか書いてみよう

成里の父、牧野某は尾張国毛呂崎城(現愛知県知多郡南知多町師崎)の城主であった石川筑後守と、
囲碁の事で論争におよび、ついにこの石川に殺されてしまった。享年29歳であったという。

この頃成里は未だ幼少であり、父の旧臣らによって育てられ成長し、元亀二年(1571)に至って父の敵を討とうとするが、
石川筑後守はすでに年老い、家督を息子の隼人佑に譲って隠居していた。そして筑後守は成里が父の復讐を
しようとしている、という話を聞き及び

「壮年の隼人佑が家督を継いでいるというのに、老衰の私を狙うなどとは、まさしく勇気の無い行い様である!」

と嘲り笑った。このことを今度は成里は伝え聞き、

「筑後守は正しく父の仇であり、だからこそ今まで彼の命を狙っていたが、そういう事であるならこの上は
隼人佑を討つべし!」として年月を送り、大野宮川の狩場においてついにこれを討ち果たした。
この時隼人佑の家来たちが成里たちを追ってきたが、かねてから牧野成里の敵討ちのことを知っていた
滝川一益が兵を出してこれを救け、伊勢長島城に迎え入れた。

そののち、滝川一益が没落すると織田信雄に仕え、また所縁があったために長谷川藤五郎秀一に属し、
文禄元年(1573)朝鮮の役に長谷川家の一員として従い、長谷川秀一が陣中において没した時、
豊臣秀吉が
「長谷川秀一の軍勢を預かるべき者は誰が良いか?」
と諸将に尋ねると、皆が牧野成里こそ然るべきと推薦したため、成里は秀吉の命令で長谷川家の軍配を預かり
士卒を下知して各所で軍功を立てた。
帰国の後豊臣秀次に仕えたが、秀次事件の後、石田三成に属した。

慶長5年(1600)の関ヶ原の役において三成が敗亡すると、郎党十余人を従え包囲を突破して
池田輝政のもとに逃げ込んだ。
輝政は徳川家康にこのことを報告し、成里を扶持した。
この時彼は剃髪し名を一楽斎と改め、輝政の領国播磨に暮らした。

やがて寛永8年(1631)の徳川秀忠の上洛の時に、伏見において仰せを被り江戸に下向し、秀忠の御前に召されて
還俗して再び名を傳蔵と改め、下野国梁田郡三千石の旗本と成った。

牧野成里の、非常にややこしい履歴についてである。
(寛政重修諸家譜)




853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/06(月) 16:35:02.63 ID:y16USDnQ
惜しい、あとちょっとで日根野さんに並べたのに

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/06(月) 17:25:48.83 ID:eASKNGlM
敵でも知り合いのところに逃げ込めばなんとかなるもんだな

855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/07(火) 06:42:02.42 ID:VFpxUdEN
今も昔もコミュニケーション能力が大事なんだな・・・

856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/07(火) 07:33:02.19 ID:VpX0d1Ko
三成の陣から池田輝政の陣まで突破するのって東軍の中央突き抜けないといけないよね、すごくね?

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/07(火) 10:11:36.36 ID:aXGL0qQ6
カタパルトで飛んでったんだろうよ

858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/07(火) 12:39:06.11 ID:8wvkDqSF
へうげェ―
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | LkZag.iM

    親父の囲碁の勝ち負けで人生狂わされるとは…

  2. 人間七七四年 | URL | -

    親父の囲碁狂いで仇討ちされる息子もカワイソス

  3. 人間七七四年 | URL | mQop/nM.

    池田家は駆け込み寺かww

  4. 人間七七四年 | URL | -

    石川筑後守「よぼよぼの老人相手に仇討ちとかワロスw」
    牧野成里「じゃあお前の息子殺ったるわ!」

    さすが三河者
    どんどん話がこじれていくw

  5. 人間七七四年 | URL | -

    >3
    駆け込み寺には、庇護権というのがあって、助けを求めてきた者を保護する権利があった(現在でも、難民や亡命者についての国家の庇護権がある)。
    上野の満徳寺と相模の東慶寺は、江戸幕府公認の駆け込み寺だった(戦国時代はもっといっぱいいあった)。
    これと同じ話が、武士にもあって、庇護権があった。江戸時代にも、東慶寺などから、遠いところの者は、離婚したい場合には、近傍の武士の家に逃げてくると駆け込みになって、内済の斡旋がされた。
    池田家は、庇護権行使に厚かったんじゃないかなあ、荒木又衛門の鍵屋の辻の決闘も、池田家(池田輝政の子の忠雄)が一枚かんでるし。

  6.   | URL | -

    なんかもう
    特に何を残したとかいう人生ではないが
    本人はとても充実した一生だったと思うw

  7. 人間七七四年 | URL | -

    伝蔵を名乗ったて事は三河牧野氏の本流なのかね。

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