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立花宗茂「これこそ私の本懐」

2012年08月14日 20:51

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/13(月) 21:04:42.54 ID:UaTtOTGh
関ヶ原の後、立花宗茂は加藤清正によって肥後の高瀬という場所に保護され、謹慎していたが、
翌年の春、宗茂は清正に

「これまでの御芳志によって、心静かに休息させていただき、満足この上もありません。
ですが私は現在、暇を持て余している遊人ですので、都に上り名所旧跡を見物したいと思っているのですが
これをどうお考えでしょうか?」

まあ、ニートしてますが引きこもってばかりいるのもアレなので外に出て京都観光でもしたい、という
ような話である。これに清正は
「尤もの仰せです。どうぞ御心に任せて下さい。この清正からも一つ馳走させてもらいます。」と、
京までの旅行について懇切に取り計らい、宗茂を京都まで上らせた。

宗茂は京都、南都(奈良)、泉州堺などを心静かに遊覧し、三歳の春を送った。
3年も遊び歩いていたのかと思わないでもないが。まあともかくもそのあたりで「今度は江戸に行ってみたい」と思い、
慶長8年の秋ごろ、江戸に行き高田の宝祥寺に忍んで滞在していたのだが、旧交のある大名小名が
これを聞きつけ訪問してきたため、後々は忍ぶも何も無いような状態で、諸大名の馳走に会って
彼方此方と忙しくしていた。

そんな時、土井大炊頭(利勝)が取り持ちをして、この宗茂の江戸滞在のことが
大御所(徳川家康)に伝えられた。このとき家康は

「先年関ヶ原の時、宗茂が石田に与したのは心から出たことではない。後から聞いたところだが、
宗茂は小早川秀包と共に、毛利輝元に色々と異見したのだが、輝元が聞く耳を持たなかったので
致し方なく大津城の攻め手に加わったのだという。宗茂にとっては詮方無き次第であったのだ。

大炊頭、その方より宗茂に、彼が輝元に異見した当時のこと等を聞き、その上で今後の身の上について
相談をしてくるのように。」

そうして訪問した土井利勝に、宗茂も徳川家から扶持されることに、いまさら異議はないと答え、
直ぐに召し出され奥州棚倉において1万石を、堪忍分として与えられた。
この時立花宗茂

「この度1万石を仰せ付けられたことを、完全に満足とは思っていない。
だが、関ヶ原の折、私が毛利輝元に諫言したということが上聞に達した。
これこそ私の本懐であり、どんなものもこれに過ぎることはない。」

そう言って喜ぶこと限りなかったという。
(立斎旧聞記)

「とにかく輝元が悪い!」で家康と宗茂が即座に和解、という微笑ましい逸話である。





964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/13(月) 21:38:35.13 ID:MV1dIMPX
三成が悪い ! にしといた方が角が立たない気がするが・・・

965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/14(火) 00:18:43.43 ID:4JYYrUrJ
これおそらく毛利からも陳情があった結果と思われ

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/14(火) 01:39:55.21 ID:XAdBBDXl
両川のゲンコツが足らなかった?

967 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/08/14(火) 07:17:20.89 ID:E1Hky5l8
TERUがそんな気が利くとは思えんな

968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/14(火) 08:06:20.34 ID:b1X0oJOX
TERUは書状を見る限りではかなりの気配り屋さんタイプなんだけど

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/14(火) 11:27:28.02 ID:fctVNUNr
>>968
毛利家は揉め事の宝庫だからなぁ
家臣同士の対立が多くて結構、輝元が仲裁に入ってるね。



970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/14(火) 11:33:25.70 ID:fiOs9Nt2
仲裁できるなんて有能な部類だろw


971 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/08/14(火) 11:42:45.08 ID:9LaxXP4H
仲裁というより泣き落としいう勝手なイメージ

972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/14(火) 11:58:22.66 ID:flU5ze7h
そこだけは泳ぐ人より上だな

973 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/14(火) 14:27:41.47 ID:Bt9OSZvH
>>969
毛利家は揉め事が起こりやすい実質国人集団なのにほんとにしっかり治めてて不思議でならない

974 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/14(火) 14:52:27.24 ID:Ib2dEjUM
あれ?でも宗茂って関ヶ原で西軍が負けた後も徹底抗戦しようとか主張してなかった?

975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/14(火) 15:25:13.76 ID:tUPjInXh
そうだっけ?
なんか干し飯濡らした印象しかない。

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/14(火) 18:12:52.50 ID:z220kJtF
>>974
だから家康、宗茂の双方、その他諸々が打ち合わた芝居なんだろう
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    自分が悪い、ということにして仲裁するTERUは大物
    ってことですか?

  2. 人間七七四年 | URL | -

    宗茂公江戸日記にもいろんなバージョンがあるな

  3. 名無しさん@2ch | URL | -

    微妙に本題とはズレますが、宗茂が謹慎していた
    高瀬とは熊本県玉名市の高瀬でいいんでしょうか?
    近くに奥方の墓があるのは発見したのですが、本人がいた事を示すものが
    無いんですよね。

  4. 人間七七四年 | URL | -

    宜しい、本懐である。

  5. 人間七七四年 | URL | -

    県民ですが高瀬=現在の玉名市高瀬で間違いありません
    玉名平野は当時、熊本平野と並ぶ肥後の2大穀倉地帯で、熊本城の北口にあたる田原坂の
    入り口でもあり、清正が宗茂をそういう要地に置いたのには色々想像が巡らされますね。
    誾千代は現在の長洲町で生涯を終えていますね。近いとはいえ仲の悪さを連想させますが
    これも、現在の荒尾市から続く丘陵地帯を越えた玉名平野の北茜端にあたり、こちらも
    戦略的な意義が何かあるのではと思わせる余地がありますね。

  6. 人間七七四年 | URL | -

    秀包哀れ

  7. 人間七七四年 | URL | -

    >米4
    貧乏提督は宇宙に帰りなさいwww
    それにその台詞、死亡フラグだから(爆)

  8. 人間七七四年 | URL | -

    ちっちぇーなw

  9. 人間七七四年 | URL | -

    実際、秀忠に召抱えられるまでの経緯や時期って正確なものはわかってないみたいだね
    立斎旧聞記もそこまであてにできるかというと・・・そうでもなさげだし
    まぁ、逸話にこんなこと言ってもしょうがないが

  10. 人間七七四年 | URL | -

    本田忠勝も仲裁してたよね
    関が原の後柳川に撤退するときに立花の家臣が使者として
    本田忠勝のもとを訪ねてる
    宗茂をかばうため家康を脅したなんてものがあるくらい
    江戸に宗茂がきたときに住む寺を紹介したり
    そのことを重鎮の耳に入れたり、まぁ複数の人間が助けようと尽力したんだろうな

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