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家督簒奪の末路

2012年08月15日 20:51

985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/14(火) 20:39:04.46 ID:lPYzGUNE
家督簒奪の末路


永正9年(1512年)、下野宇都宮家で「宇都宮錯乱」と呼ばれる大きな家中騒動が起き、
当主宇都宮成綱は隠居に追い込まれ子の忠綱が跡を継いだ。
隠居をした後も実質的な権力をは忠綱に有り、2年掛けて錯乱を鎮圧し、反抗勢力の主である芳賀家を叩き、
宇都宮家の安泰に務めたがその成綱も永正13年(1516年)に死亡してしまう。

忠綱の代の宇都宮家には2つの爆弾があった。まずは父成綱の弟興綱、もう一つは宇都宮錯乱で
大いに活躍した壬生綱重の息子、壬生綱房である。
忠綱は叔父の忠綱を仲の悪かった芳賀家に送り込んで取り込みを図ったが、仲の悪い芳賀家に
これまたさほど良好ではない間柄の叔父を送り込んだ事は、反忠綱勢力の結集を強めてしまったらしい。

大永3年(1526年)、ついに反抗勢力が忠綱に牙をむく。
結城政朝が宇都宮領に攻め込んで来たことで忠綱が迎撃に出撃した隙に興綱が宇都宮城を占拠したのである。
本拠を追われた忠綱は壬生綱房に匿われたが大永4年(1527年)に興綱を接近した綱房に暗殺されてしまった。

こうした経緯で宇都宮家19代当主宇都宮興綱が誕生したのであるが家中の混乱はこれで収まらない。
興綱は忠綱への反抗に役立った芳賀家嫡流に家督を返還し、宇都宮家中での地位を保全したのだが
これがまずかった。
芳賀家は忠綱時代より更に強大になった壬生綱房と手を結び、やがてこの両者の専横に
手が付けられなくなったのである。

天文元年(1532年)、興綱は芳賀高経・壬生綱房によってかつての「家督簒奪」の罪を糾弾され
強制的に隠居に追い込まれ、
天文5年(1536年)にはついに芳賀高経よって暗殺されてしまう。

芳賀や壬生が興綱の家督簒奪を罪に問うのはまさに「お前が言うな」状態では有ったのだがこうして
興綱の短い春は終わった。


後日談
宇都宮家のその後
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6692.html


986 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/14(火) 20:44:47.89 ID:QoHnq8Qd
>仲の悪い芳賀家に これまたさほど良好ではない間柄の叔父を送り込んだ事は、反忠綱勢力の結集を強めてしまったらしい

頭悪すぎだろう・・・

987 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/14(火) 21:30:35.14 ID:xUEdL4ex
宇都宮家にとっての芳賀と壬生は、那須家にとっての大田原みたいなもん
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    力を持ちすぎた家臣は大名にとって粛清の対象にしかならない理由がよくわかる

  2. 人間七七四年 | URL | -

    もう少し読みやすく出来んもんですかな…

  3. 人間七七四年 | URL | -

    名前が……
    もう少し確認してくれ萎える

  4. 名無しさん@ニュース2ちゃん | URL | -

    栃木…

  5. 人間七七四年 | URL | B3MVi5n2

    書き直し

    間違いやややこしい言い回しを勝手に直してみた。【カッコ】内が書き直し箇所。

    永正9年(1512年)、下野宇都宮家で「宇都宮錯乱」と呼ばれる大きな家中騒動が起き、当主宇都宮成綱は隠居に追い込まれ子の忠綱が跡を継いだ。
    隠居をした後も実質的な権力は【成綱】にあり、2年掛けて錯乱を鎮圧し、反抗勢力の主である芳賀家を叩き、宇都宮家の安泰に務めたがその成綱も永正13年(1516年)に死亡してしまう。

    忠綱の代の宇都宮家には2つの爆弾があった。まずは父成綱の弟興綱、もう一つは宇都宮錯乱で大いに活躍した壬生綱重の息子、壬生綱房である。
    忠綱は叔父の【興綱】を仲の悪かった芳賀家に送り込んで取り込みを図ったが、仲の悪い芳賀家にこれまたさほど良好ではない間柄の叔父を送り込んだ事は、反忠綱勢力の結集を強めてしまったらしい。


    大永3年(1526年)、ついに反抗勢力が忠綱に牙をむく。
    結城政朝が宇都宮領に攻め込んで来たことで忠綱が迎撃に出撃した隙に興綱が宇都宮城を占拠したのである。
    本拠を追われた忠綱は壬生綱房に匿われたが大永4年(1527年)に興綱【に】接近した綱房に暗殺されてしまった。

    こうした経緯で宇都宮家19代当主宇都宮興綱が誕生したのであるが家中の混乱はこれで収まらない。
    興綱は忠綱への反抗に役立った芳賀家嫡流に【芳賀家の】家督を返還し、宇都宮家中での地位を保全したのだがこれがまずかった。
    芳賀家は忠綱時代より更に強大になった壬生綱房と手を結び、やがてこの両者の専横に手が付けられなくなったのである。

    天文元年(1532年)、興綱は芳賀高経・壬生綱房によってかつての「家督簒奪」の罪を糾弾され強制的に隠居に追い込まれ、天文5年(1536年)にはついに芳賀高経よって暗殺されてしまう。

    芳賀や壬生が興綱の家督簒奪を罪に問うのはまさに「お前が言うな」状態では有ったのだがこうして興綱の短い春は終わった。

  6. 名無し | URL | -

    興綱が成綱の弟って説は古い
    近年興綱は成綱の末子だってことが判明したし、猿山合戦は1523年の8月に発生している
    芳賀高経や芳賀高孝は成綱によって助命されたけど、しばらくの間は抑留状態だったし
    興綱の家督簒奪は芳賀高経に擁立されたために起きたけど、興綱自身が反乱を起こしたわけではない。当時興綱は9歳だったし
    当主になった後は幼いがために芳賀の専横を許してしまってる
    晩年いきなり、他国を攻め始めたのは興綱が元服して、実権を握ったから
    傀儡として扱えなくなったために、芳賀高経や壬生綱房が興綱を家督簒奪の罪で強引に隠居させて、その後殺された

    成綱が芳賀に興綱を送ったことに関してはまったくと言っていいほど落ち度はない
    忠綱の家臣統制の強化や度重なる合戦、壬生優遇などで、笠間や塩谷を敵に回してしまったことが原因

    成綱の唯一の落ち度は肝心な時期に病死したこと

  7. 人間七七四年 | URL | -

    >管理人さま

    原文>>985名前の間違いだらけで読めないので、※5のの書き直し版と差し替えてください。。

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