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あの時は不届きな奴だと思ったが

2012年09月03日 20:50

332 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/09/02(日) 21:17:00.12 ID:TSf9tIc5
直島直茂が船で肥前に帰還した時の事である。海が大荒れとなって船は激しく揺れて
梶までも壊れてしまった。元々磯の匂いをかいだだけで食事も出来なくなるほどの船嫌いだった直茂は
すっかり平常心を無くし、

「天下に名の知られた自分が、丸腰の死体で見つかっては子孫の恥だ。」

と言って、家臣に刀を渡す様に命じた。しかし、直茂が自刃するつもりだと察した家臣は命令を聞こうとせず、
そうこうしている内に波は静まり直茂も落ち着きを取り戻した。後に一部始終を聞いた正室の陽泰院は涙を流してこの家臣に感謝し、
直茂も

「あの時は不届きな奴だと思ったが、今となれば大功であったな。」

と褒めたという。




333 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 21:23:24.77 ID:bysBIx0B
正純「こういうときは家臣の名を聞いてもいいよね?」

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 23:55:15.27 ID:q4eQkX9k
どう考えても船酔いより腹切りの方が苦しそうなんだけど

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 23:58:08.08 ID:NFIy7Xjx
頚動脈切るんじゃねのすか?

340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/03(月) 08:00:19.26 ID:7uXZt+i5
その死に方だとそれはそれで不名誉な感じだけどw

341 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/09/03(月) 10:32:56.10 ID:6JFXRBeQ
なおしげ は こんらんしている!
みたいなもんだなぁ
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    あれ、これ前にも出てなかった?似た逸話読んだ覚えがあるが……
    俺の勘違いで別の書籍あたりか、違う人の逸話のことだったらすまない

  2. 人間七七四年 | URL | -

    ※1さん、勘違いではありません。既出です。
    ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3409.html

  3. 人間七七四年 | URL | sSHoJftA

    鍋島?

  4. 人間七七四年 | URL | -

    直島になってるな

    肥前藩はどこから船に乗るんだろう
    博多あたりに出てからならいいけど
    有明海からだと酷そうだ

  5. 人間七七四年 | URL | -

    これはいかん、早く直島しょう

  6. ※1 | URL | -

    ※2さん
    返事ありがとうございます。ちなみにそっちだと、この時死のうとしてた直茂を引き留めたのは藤島生益と持永助左衛門という家臣だったと判明してますね

    この時代、九州から海路で近畿以東に行くなら、ほぼ間違いなく瀬戸内海通るだろうから少しでも船旅の日程縮めるため、博多発のような気もするけど…どうだったんでしょう?

  7. 人間七七四年 | URL | -

    先日地元(福岡)の歴史の講義で熊本藩などは博多経由で船出してたと聞いたから佐賀も多分そうだろう
    流石に有明海から九州大回りして瀬戸内海に向かってちゃ時間掛かりすぎるだろうし

  8. 人間七七四年 | URL | -

    >「あの時は不届きな奴だと思ったが、今となれば大功であったな。」
    この様に、後に振り返り素直に相手を褒める事が出来るのも幸せな事ですね。

    >5さん
    誰が上手い事言えとwww(ナイスです!)

  9. 人間七七四年 | URL | -

    ※6
    内航船で外洋の玄界灘や響灘を航海するって結構危ない気もしますね。
    豊後のあたりは畿内と連絡取りやすかったといいますし、普通に豊後まで陸路なのかも。
    江戸時代の柳川藩だと、久留米市の方へ抜けていたみたいですし、恐らく別府から船です。

  10. 人間七七四年 | URL | -

    「死ぬことと見つけたり」では勝茂がこれやるんだよな。
    お陰で色々混乱する。

  11. 人間七七四年 | URL | -

    ※10
    もしかしたら親子で同じことやったのかもよ、船酔い体質が遺伝してw
    でも勝茂の嫁だとガッツリ旦那に説教しそうだな・・・。

  12. 人間七七四年 | URL | -

    加藤時代の熊本藩は豊後に飛び地(久住、野津原、鶴崎)があって
    加藤清正がその飛び地をつなぐ豊後街道を整備したそうです。
    熊本藩の参勤交代は陸路で豊後街道を通って九州を横断。
    鶴崎の港から海路で瀬戸内海を通って大坂に至り、東海道を江戸に向かっていたそうです。

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