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「私の見立てに狂いはなかった」

2012年09月11日 20:33

433 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/11(火) 18:36:57.61 ID:kKNGOlHu

岐阜の役の時、堀尾吉晴の子・忠氏は戦功を立てた。
吉晴はこの日の勝利の報告を聞き、首帳を見たところ、
「首一つ、十五歳、山田多門兵衛」とあるのを読みも終わらず、

「近頃まで竹馬に乗っていた童がもう功名を立てたかぁ。
父親が存命ならどれほど喜んだことであろうか…」と涙を流した。

また「梯子権八の功名が記されていないのは何故だ。
討死したならともかく、功名については上から三番目以内に
入っているはずの者なのに」と怪しんだが、やがて飛脚がやって来て、

「権八は一番に続いて首を取りましたが、手負いのために
首帳に記すのが遅れました」と告げたので、

「私の見立てに狂いはなかった」と言ったということだ。

――『名将言行録』





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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    忠氏はなんだったの?

  2. 人間七七四年 | URL | -

    米1
    忠氏の部隊が戦闘で勝って、首を挙げた首帳を吉晴に提出して、こういうお話になったと思われる。

  3. 人間七七四年 | URL | -

    この「岐阜の役」とは関が原へ至る前に
    東軍が岐阜城を落とした(またはその周辺の)戦いを指していると思われます。
    この時点で堀尾家の当主は忠氏で、吉晴はご隠居です。

    だからこの文章全体として、
    「忠氏の軍の出来事」という前提があった上で
    このような書き方をしているのではないでしょうか。

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