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元就公のご生前の、常の行状

2012年12月23日 19:12

850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/22(土) 23:23:58.75 ID:1bAaG98a
ここに古老の物語あり。左をこれに記す。

ある時吉川元春様より、宍戸隆家年松彌六と申す者が御使として差し越された。
彼は甲立(五龍城)に登城し、元春からの口上を申し上げようとすると、その日は丁度
元就公の御忌日であり、宍戸隆家は書院の床に御位牌をかけられ、その御位牌の前に
座っておられた所に使者がやってきたため、そこで隆家はこの彌六を側に召し、直に
その口上を聞かれた上で、この様に言った

「今日は元就公の御忌日であるので、出家などを招いて焼香をするのだよ。
これについては、家来たちには焼香を免していないのだが、そなたは元春殿の名代として
こちらに来ているので、尊霊に御焼香されるように。」

彌六は恐縮し辞退したが、再三に仰せ付けられたため、お次の間に立って別の香炉に火を入れ
持参し、書院に戻ってこれに焼香した。

この時隆家が彌六に語ったことには

「その方などは歳若いので、元就公のご生前の、常の行状なども知らないであろう。

元就公は、先ず常には物静かで、落ち着かないような気色など少しも見えない人であった。
どれだけ諸方から急難が報告され、大敵が攻め寄せてきたという時でも、いつもと変わった
御気色もなく、却って、春は花、秋は紅葉と、その季節の風景によって連歌の会を開いたり、
歌などを詠まれる事も多かった。

私は最初、軽業などは苦手だと思っていたのだが、馬を乗り弓を射、太刀を遣い走り来る、
こういった飛び技まで優れた人であった。

そうであったから、家中に侍たちは言うに及ばず、新たに幕下に加わり初めて対面するものまで、
この人こそ主君であると頼んだのだ。

元就公は一言の約束が、たとえ年月を経ても、違えること有るまじと、好意を表すように
律儀第一にされ、夫々の者たちに対して礼儀深く、慮外な振る舞い、奢った行跡など露程もなかった。
土民に至るまで、無理非分の事が少しもなかったので、人々はことごとく公を慕い、
『どんな役儀であっても申し付けて下さい!元就様のために御奉公をしたいのです!』
と思い立っていた程の仕置を為されていた。

また、非常に細かく心遣いを為されていた方であった。
公は、夜ぐっすりと眠られるということはなかった。硯・料紙・灯を枕元に置かれ、
諸所や国境に置かれた侍たちに、その時その時に適した指示書の案文、その他要件の事など
思いつき次第に書き置かれ、翌朝家老たちが出仕すると、書付を元にいろいろな指示を
申し付けられたのだ。」
(吉田物語)

宍戸隆家の語る、毛利元就の姿である。



851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/23(日) 00:20:00.20 ID:tsA5WNC2
完璧超人たる隆景の父親も完璧超人だったでござる。

隆元やTERUが自虐気味になるのも仕方がない。

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/23(日) 00:30:53.46 ID:E8N7OZZb
隆元ももう少し自身持てよと言いたいくらい大概完璧超人だと思う
信用とか内政手腕は元就を凌いでいるじゃないか

853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/23(日) 01:18:18.62 ID:yU+K4tyY
元就すげー。よく70まで長生きできたなぁ

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/23(日) 03:36:30.71 ID:mWfnJU9O
「萩藩閥閲録」によると
毛利輝元は秀吉死後の混乱に備え、
大阪の毛利屋敷に2万の兵と鉄砲700を備えさせていたという


最終的にはこの毛利勢2万を利用する形で西軍が形成されるんだけど、
この辺りの周到さはTERUも乱世の人だなぁって思うわ

855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/23(日) 03:51:06.29 ID:Aj3PgZs/
2万人収容できる毛利屋敷広いな

856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/23(日) 08:53:20.13 ID:qZHo839D
>>854
それのネタって、いつもホラ吹き全開な内藤周竹さんあたりじゃなかったっけ?

三成襲撃事件などでも、広家が自領から兵を率いて急行してたりするから、
上方に極端な大兵力は置いてないんだけどね。

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/23(日) 12:06:50.54 ID:mWfnJU9O
>>845
たしかに内藤小源太のやつだねー

三成の件の後に常駐させていた(数にフカシはあっても)可能性もあるし
個人的にはそういった戦力がないと西軍を結集するときに
諸大名を糾合するのに必要な物量がなかったんじゃあ…と考えてるんだけど、どうなんだろ

858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/23(日) 12:14:02.54 ID:qZHo839D
>>857
一応、三成事件の前も伏見に1500程度はおいてたから
あわせて三千程度ならあるかもしれんが、それ以上の数は
毛利氏の動員力的に無理だと思う。

文禄、慶長の役でさえ、軍役を満たせてなかったし。

859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/23(日) 12:31:28.97 ID:c4lJcLo9
鉄砲700からすると2000兵でも多そう
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    そもそも、これだけ慕われる人物の息子達が下手な教育を
    受けて育つ訳が無いと思う。その教育を受け継いだTERUさん
    が、驚く程不手際と言う事は無いだろう。
    一回のインパクトが、でか過ぎるんだろうと思う。

    >大名屋敷
    この屋敷に駐屯と言うのを何度か聞きますが。
    そもそも大名屋敷にそれだけの兵数を置ける程の敷地面積や
    建物の構造が耐えられたのでしょうかね?
    (広さと兵数は当然石高に寄るだろうけど)

  2. 人間七七四年 | URL | -

    大河ドラマの、弱気だった隆元(上川隆也)が色々あって前向きになった矢先に暗殺されたのは悲しかったなぁ

  3. 人間七七四年 | URL | WJ9iU69.

    >屋敷に駐屯
    当時の建築物は一部を除いて平屋建てなので、概ね敷地面積に比例した収容能力なんじゃないでしょうか?
    雑魚寝+αで1人1坪必要として、1町四方(60間≒109m)の屋敷で3600人。全ての面積を利用することは出来ない上、兵以外の人間も必要なので、詰め込んでも1000人ぐらいが限界なんじゃないでしょうか?
    また、時代は下りますが、江戸城大奥の女中は3000人ほど居たらしいですが、江戸城本丸(本丸としては日本最大)の半分ほどの面積を使用した上、長局(女中用アパート)は2階建てだったようです。

  4. 人間七七四年 | URL | -

    清盛も三男以降有能だったらねぇ
    次男は早世だから仕方がないけど

  5. 人間七七四年 | URL | -

    息子のうち、知盛さんは最期のエピソード的にまだ有能というか勇猛というか、そこまで救いがない訳ではない…と思いたい
    あと宗盛さんも武将や政治家としてはともかく、やはり最期の逸話から考えたらいち個人としてはいい人ぽいからなぁ…

    ※3
    へー、成程。相変わらずここの方々の博識ぶりには驚かされつつ、勉強になります。

  6. 名無しのグルメ | URL | -

    >※1
    秀吉の時代、大坂城の周囲には細川、前田、鍋島など、天満には織田、木津には毛利の屋敷がありました。ただ、この時代の大名屋敷は戦時に備えた陣屋的なもの。貯蔵されていた米も兵糧としての意味合いが強かったようです。
    中之島かいわい蔵屋敷ものがたり(1)より

  7. TERUはTERU(笑)以下で以上でもない。
    毎回勝手な事をやって叔父や権現様に怒られ人妻略奪をしてウサを晴らす。
    そういう人物。

  8. 人間七七四年 | URL | -

    ※7
    はいはいアンチ乙
    無知なのがバレバレだよ

  9. 人間七七四年 | URL | -

    >米3さんへ
    1です。大変参考になりました。有難う御座います。

  10. 人間七七四年 | URL | -

    元就は上洛しなかったことが悔やまれるなあ。
    かなりもてはやされてただろうに。

  11. 人間七七四年 | URL | KAms/y7Q

    そういや中国三大謀将の中で元就さんだけ唯一上洛経験ないんだな

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