74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/12(土) 19:26:13.97 ID:bCcU/3o7
新納忠元は島津忠良を烏帽子親として元服して以降50年余りの歳月を陣中で過ごしてきたが、
晩年は寄る年波に勝てず床に伏せる日々が続いたという。
その衰弱振りたるや、「(掛け)布団が(体に架かって)苦しい」と訴えるなど、かつての雄姿からは想像も出来ぬほどであった。
家の者は敷き布団の四隅に低く切った柱を置き、その上に掛け布団を被せて忠元の体に布団が直接掛からないように気遣ったが、快癒の兆しは一向に見られなかった。
忠元には二人の息子がいたがいずれにも先立たれていた。
特に次男の忠増を関ヶ原の後に失ったことはよほど応えたらしく、忠増の忘れ形見である幼い忠清の将来を思いやって
懊悩する日々であった(長男の忠堯は子を残さぬまま、龍造寺との合戦で戦死)。
時の島津家当主である忠恒はこれを気の毒に思い、使者を遣わして忠清に大口地頭の地位を約束した。
主君の気遣いに忠元は涙を流して喜んだが、「畏れ多いことながら」と謝絶した。使者が帰った後、孫を枕元に呼んで曰わく、
「お殿様は忝くも、お前にこの爺と同じ地位を約束してくれた。
じゃがそれは爺の方からお断り申し上げた。大口地頭は肥後からの守りを担う重要なお役目じゃ。
才覚も定かでない幼い者がそのような重要な立場にあって、主家が安泰を得た例は古今東西無きに等しい。
研鑽と鍛錬を怠らなければ、いずれお殿様はお前にふさわしいお役目を与えてくれよう。」
と不相応な地位を望まぬよう諭した。そして
「爺のようにただ強ければよい、戦に勝てばよい、という時代は終わった。
これからはよく主を支え、時に諫め、外にあっては上方の者に侮られぬよう教養を身に付け、
駆け引きにおいても遅れをとらぬようにせねばならんぞ」
と付け加えた。
忠元の体調はその後も回復せず、義久、義弘、忠恒ら歴代島津家当主の祈りも虚しく悪化の一途を辿った。
いよいよ死期を悟った忠元は呻き声を出して忠増の妻を呼んだ
(衰弱が進んだ忠元の言葉を聞き分けられるのは、身の回りを世話していた彼女だけだったという)
(続く)
75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/12(土) 19:29:00.82 ID:bCcU/3o7
(続き)
彼女によって家中の者が集められ、忠元の言葉が伝えられた。
「儂の身体を国分の方へ向けよ」
国分は先々代の当主、義久の居城である。おそらくは最後の暇乞いをなされるのであろう……
主人の覚悟を察した一同は、出入りの大工に命じて大きな木の板を設えた。
忠元の体を敷き布団ごと板の上に乗せて身体を国分の方角へ向かせると
「お義父上様、国分でございますよ」忠増の妻の言葉が聞こえたか、布団のなかで姿勢を正した。
心中で別れを告げたか、次は義弘の居城の加治木、その次は忠恒の鹿児島へと向きを変えさせた。
そして最期に「肥後へ向けよ」と命じた。
名将にして難敵、加藤清正の治める地である。
長年振るってきた愛刀を持って来させると、死期を迎えた老人とは思えぬ力強さで刀を握り、眼前に構えた。
刀とその先にある肥後を睨みつける眼光に周りは昔日の鬼武蔵を見る思いだったが、それも長く続かず、
刀を戻すと疲れきったていで忠元は布団ごと床にもどされた。
暫くして意識を取り戻し、「儂の念を刀に込めておいた。されば肥薩の境が侵されることは当面あるまい」
言い終わると眠るように目を閉じた。
忠元の死後は多数の殉死者がでることと想われたが、家人の長老格であった伊地知清人と宮内九兵衛が先手を打って
「我々二人がお供をするゆえ、決してあと追わぬように」と切腹して果てたため以降の殉死者は出なかったが、
自らの指を切って殉死の代わりとしたものが後を絶たなかった。
その遺骸は大口天龍寺にて火葬に付し、霊屋を祥雲寺に建ててその中に夫人の碑と並べて安置した。
法名を耆翁良英庵主。
忠元が死の床にあってなお警戒し続けた加藤清正は忠元と同じ年にこの世を去り、
後を子の忠広が継いだが家臣団を統御しきれず改易。肥後は加藤家に変わって細川家が入ることになった。
忠元が最後に語ったとおり、加藤家によって肥薩の国境が侵されることはついになかったのである。
78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/12(土) 21:01:59.98 ID:j16t8+VK
悪家久さん、嫁さんもそれ位気遣ってあげて下さい
79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/12(土) 23:40:02.42 ID:E1Pp/HP8
こういう名将の最期は悲しさよりも寂しさの方が先に立つな…
なのにどうしても悪久の名前に目が行ってしまう
81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/13(日) 16:02:52.18 ID:32Y53pFv
>>79
デ新納さんほどの人物が「武辺の時代は終わった」と言うと
ほんとに戦国の終わりを実感させるよなぁ
新納忠元は島津忠良を烏帽子親として元服して以降50年余りの歳月を陣中で過ごしてきたが、
晩年は寄る年波に勝てず床に伏せる日々が続いたという。
その衰弱振りたるや、「(掛け)布団が(体に架かって)苦しい」と訴えるなど、かつての雄姿からは想像も出来ぬほどであった。
家の者は敷き布団の四隅に低く切った柱を置き、その上に掛け布団を被せて忠元の体に布団が直接掛からないように気遣ったが、快癒の兆しは一向に見られなかった。
忠元には二人の息子がいたがいずれにも先立たれていた。
特に次男の忠増を関ヶ原の後に失ったことはよほど応えたらしく、忠増の忘れ形見である幼い忠清の将来を思いやって
懊悩する日々であった(長男の忠堯は子を残さぬまま、龍造寺との合戦で戦死)。
時の島津家当主である忠恒はこれを気の毒に思い、使者を遣わして忠清に大口地頭の地位を約束した。
主君の気遣いに忠元は涙を流して喜んだが、「畏れ多いことながら」と謝絶した。使者が帰った後、孫を枕元に呼んで曰わく、
「お殿様は忝くも、お前にこの爺と同じ地位を約束してくれた。
じゃがそれは爺の方からお断り申し上げた。大口地頭は肥後からの守りを担う重要なお役目じゃ。
才覚も定かでない幼い者がそのような重要な立場にあって、主家が安泰を得た例は古今東西無きに等しい。
研鑽と鍛錬を怠らなければ、いずれお殿様はお前にふさわしいお役目を与えてくれよう。」
と不相応な地位を望まぬよう諭した。そして
「爺のようにただ強ければよい、戦に勝てばよい、という時代は終わった。
これからはよく主を支え、時に諫め、外にあっては上方の者に侮られぬよう教養を身に付け、
駆け引きにおいても遅れをとらぬようにせねばならんぞ」
と付け加えた。
忠元の体調はその後も回復せず、義久、義弘、忠恒ら歴代島津家当主の祈りも虚しく悪化の一途を辿った。
いよいよ死期を悟った忠元は呻き声を出して忠増の妻を呼んだ
(衰弱が進んだ忠元の言葉を聞き分けられるのは、身の回りを世話していた彼女だけだったという)
(続く)
75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/12(土) 19:29:00.82 ID:bCcU/3o7
(続き)
彼女によって家中の者が集められ、忠元の言葉が伝えられた。
「儂の身体を国分の方へ向けよ」
国分は先々代の当主、義久の居城である。おそらくは最後の暇乞いをなされるのであろう……
主人の覚悟を察した一同は、出入りの大工に命じて大きな木の板を設えた。
忠元の体を敷き布団ごと板の上に乗せて身体を国分の方角へ向かせると
「お義父上様、国分でございますよ」忠増の妻の言葉が聞こえたか、布団のなかで姿勢を正した。
心中で別れを告げたか、次は義弘の居城の加治木、その次は忠恒の鹿児島へと向きを変えさせた。
そして最期に「肥後へ向けよ」と命じた。
名将にして難敵、加藤清正の治める地である。
長年振るってきた愛刀を持って来させると、死期を迎えた老人とは思えぬ力強さで刀を握り、眼前に構えた。
刀とその先にある肥後を睨みつける眼光に周りは昔日の鬼武蔵を見る思いだったが、それも長く続かず、
刀を戻すと疲れきったていで忠元は布団ごと床にもどされた。
暫くして意識を取り戻し、「儂の念を刀に込めておいた。されば肥薩の境が侵されることは当面あるまい」
言い終わると眠るように目を閉じた。
忠元の死後は多数の殉死者がでることと想われたが、家人の長老格であった伊地知清人と宮内九兵衛が先手を打って
「我々二人がお供をするゆえ、決してあと追わぬように」と切腹して果てたため以降の殉死者は出なかったが、
自らの指を切って殉死の代わりとしたものが後を絶たなかった。
その遺骸は大口天龍寺にて火葬に付し、霊屋を祥雲寺に建ててその中に夫人の碑と並べて安置した。
法名を耆翁良英庵主。
忠元が死の床にあってなお警戒し続けた加藤清正は忠元と同じ年にこの世を去り、
後を子の忠広が継いだが家臣団を統御しきれず改易。肥後は加藤家に変わって細川家が入ることになった。
忠元が最後に語ったとおり、加藤家によって肥薩の国境が侵されることはついになかったのである。
78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/12(土) 21:01:59.98 ID:j16t8+VK
悪家久さん、嫁さんもそれ位気遣ってあげて下さい
79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/12(土) 23:40:02.42 ID:E1Pp/HP8
こういう名将の最期は悲しさよりも寂しさの方が先に立つな…
なのにどうしても悪久の名前に目が行ってしまう
81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/13(日) 16:02:52.18 ID:32Y53pFv
>>79
デ新納さんほどの人物が「武辺の時代は終わった」と言うと
ほんとに戦国の終わりを実感させるよなぁ
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コメント
人間七七四年 | URL | -
最後の最後まで泣ける良いお話でしたな。
( 2013年01月13日 23:35 )
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なぜここであの鬼武蔵が?と思ってしまったオレはここにかなり毒されている。
( 2013年01月14日 00:05 )
人間七七四年 | URL | -
やべえ、これは泣ける
( 2013年01月14日 08:14 )
| URL | -
※2鬼武蔵だって、遺言状は泣ける(別の解釈もあるが)
( 2013年01月14日 08:21 )
人間七七四年 | URL | -
殉死もそれぞれだね。自分が死んだら何人殉死してくれるか余計な心配するのもいれば、殉死は御家のためにならないとキッパリ断ったのもいれば、今度のように若い人材を失うまいと長老が先んじて腹を切って諫めるのもいる(それでも指を切ったのはいたと文章にあったけど)。本当の戦国の終わりを感じさせる文章でした。
( 2013年01月14日 09:14 )
人間七七四年 | URL | -
義弘も晩年は衰弱しきってたんだっけ。デ新納さん同様、期待してた次男は早世して、愛妻にも先立たれてるし、愛娘は遠い地にいて看取る事ができず、男児で唯一生き残った三男はあんなんだし…ゲフンゲフン
にしても名将の終わりと戦国の世の終わり、どちらも分かっていても切ないな…
( 2013年01月14日 14:47 )
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