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信州伊那郡知久氏の転変

2013年02月09日 19:50

468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/09(土) 01:54:48.17 ID:UuXjbRZo
かつて武田信玄に滅ぼされ、信州伊那郡を追われていた知久氏という豪族がいた。
その武田家が滅亡すると、信玄に討たれた知久頼元の子・頼氏は20数年ぶりに
本領を回復し、神之峰城主となっていた。
本能寺の変後は徳川家康に従い、家康の命に従って軍事行動を起こしながら、
回復した所領の仕置に取り掛かるなど頼氏は活発な活動を展開する。
その甲斐あってか、天正11年6月には、かつて武田信玄に焼き討ちされていた
文永寺を再建した功績により、従五位下に叙されるなど、領内は不安定ながらも
知久氏は再興に向けて、少しずつ歩みを進めていた・・・かに思われた。

が、翌天正12年の11月、突然頼氏は徳川家康のいる浜松へ呼び出され、自害を
命じられた。詳細な資料は残っていないものの、一説には、木曾義昌に同調して
羽柴秀吉に通じたという嫌疑をかけられたからだとも言われている。

頼氏の没落と前後して、伊那郡には奥三河の菅沼小大膳定利が入部し、知久氏の
家臣団および頼氏の遺児・万亀は定利の支配下に組み込まれ、知久氏は自立した
国衆としての地位を失うこととなった。
ところが定利は知久衆や万亀に対し尊大に接し、傍若無人な振る舞いをしたと伝えられ、
それに憤り「この恨みいつか晴らしてくれん」とつぶやいた知久氏の家老・知久右馬介は、
後日茶会に招かれた際に謀殺されてしまった。

この事態に身の危険を感じた頼氏の妻は万亀とともに遠州へ逃れ、大久保忠世を頼って
菅沼定利の非道ぶりを家康に訴えたが、結局定利の行動は不問に付され、彼はその後
飯田城、関東転封後は上州吉井2万石の大名に取り立てられてた。

本能寺の変後、甲信へ勢力を広げる中で、しばしば家康の三河衆と現地の豪族との間で
軋轢が生じていたようで、この菅沼定利以外にも、家康から二年という期限つきながら
信濃の統括を任された酒井忠次は「家康公は信濃を私に下されたのだ」と公言してはばからず、
家康からの委任を受けたことを背景に、諏訪頼忠に対し高圧的な態度をとり、結果として
頼忠の離反を招いている。

ちなみに、知久氏のその後に触れておくと、万亀は大久保忠世の庇護の下にあったが、
後に忠世のとりなしで家康の小姓に取り立てられた。万亀は後に知久則直と名乗り、
関ヶ原の合戦後に信州伊那郡の旧領阿島に3千石を与えられ、旗本として復活を遂げた。
定利に謀殺された右馬介の遺児もまた、則直に仕えたと伝えられている。





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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    何というか、これまでさんざん苦労させられた武田の旧領を獲得できたことで、徳川家臣団の箍が外れてしまったのかねえ・・・
    小牧戦以降に信濃の豪族衆がラスボスの調略に見事に釣られたのも、こういった素地あってのことなのかもなあ。

  2. 人間七七四年 | URL | -

    信濃の国衆の動きは、それぞれ情勢の変化に応じたもんだよ。
    木曽や小笠原が転んだのは、飛騨が攻略されたのが大きい。

  3. 人間七七四年 | URL | -

    またもここで三河の良心・忠世さんの取り成しか。
    この人も三河者の中でもかなり柔軟に対応出来る人だなぁ。

    何にしても交代寄合として存続できて何より。

  4. 人間七七四年 | URL | -

    武田滅亡後の甲信国衆の動きは複雑だよなぁ

    『天正壬午の乱』って本が面白かった

  5. 人間七七四年 | URL | -

    ※4
    その続きとも言える「武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望」も面白いよ。

    知久氏に限らず、国衆の浮沈は激しかったね。
    敗者復活に成功したり、没落したり、寝返りが成功したり失敗したり
    生死を賭けたドラマだよね。

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