588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/02(土) 12:10:49.76 ID:etb1I0RW
初代龍野城主・赤松村秀は赤松政則の庶子だが(諸説あり)、正室(魔法半将軍の妹)を憚る政則の意向で、
西播磨8郡郡代・赤松下野守政秀(性喜。黒田官兵衛と戦った赤松下野守政秀(村秀の子)とは別人)に
預けられることになった。
政秀は片吹村から「ちよ」を召し出して乳母とし、村秀の養育に当たらせたのである。
村秀を育て上げたちよは、大永~享禄の頃、自身の老齢を理由として暇乞いを申し出た。
村秀は彼女に労いの言葉をかけ、「何か望みはないか?」と尋ねた。
ちよは、彼の心遣いに感謝し、かねてから抱いていた願望を口にした。
「私の里、片吹村は常に水不足で、村人は大変困窮しております。
願わくは、岩見井から鍬一枚分の水を取ることをお許しくださいませ。」
村秀は、その願いを聞き届けた。
早速、片吹村付近を流れる灌漑用水「岩見井」に、鍬一枚分の幅の取水口を設けさせたのである。
こうして、村には豊富な用水が流れ込むようになり、10町歩の農地が美田に姿を変えた。
村人は、取水口を「姥ヶ堰」、それによって潤った水田を「御殿地」と呼ぶようになり、
天文3年に世を去った「ちよ」の名とともに、代々語り継いでいった。
村人たちが浄財を出し合い、彼女の遺徳を讃える「姥ヶ堰之碑」を建立したのは明治時代のことである。
589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/02(土) 12:39:39.21 ID:KSWeWEe5
これはいい話だな。
「ちよ」さんも偉いが、明治以降まで語り継いでる村人も偉いな。
初代龍野城主・赤松村秀は赤松政則の庶子だが(諸説あり)、正室(魔法半将軍の妹)を憚る政則の意向で、
西播磨8郡郡代・赤松下野守政秀(性喜。黒田官兵衛と戦った赤松下野守政秀(村秀の子)とは別人)に
預けられることになった。
政秀は片吹村から「ちよ」を召し出して乳母とし、村秀の養育に当たらせたのである。
村秀を育て上げたちよは、大永~享禄の頃、自身の老齢を理由として暇乞いを申し出た。
村秀は彼女に労いの言葉をかけ、「何か望みはないか?」と尋ねた。
ちよは、彼の心遣いに感謝し、かねてから抱いていた願望を口にした。
「私の里、片吹村は常に水不足で、村人は大変困窮しております。
願わくは、岩見井から鍬一枚分の水を取ることをお許しくださいませ。」
村秀は、その願いを聞き届けた。
早速、片吹村付近を流れる灌漑用水「岩見井」に、鍬一枚分の幅の取水口を設けさせたのである。
こうして、村には豊富な用水が流れ込むようになり、10町歩の農地が美田に姿を変えた。
村人は、取水口を「姥ヶ堰」、それによって潤った水田を「御殿地」と呼ぶようになり、
天文3年に世を去った「ちよ」の名とともに、代々語り継いでいった。
村人たちが浄財を出し合い、彼女の遺徳を讃える「姥ヶ堰之碑」を建立したのは明治時代のことである。
589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/02(土) 12:39:39.21 ID:KSWeWEe5
これはいい話だな。
「ちよ」さんも偉いが、明治以降まで語り継いでる村人も偉いな。
スポンサーサイト
コメント
人間七七四年 | URL | -
大○義隆「溢れ蛍と聞いて」
△崎義隆「蛍はよいのう」
( 2013年03月02日 22:35 )
人間七七四年 | URL | -
地元の話や嬉しい
( 2013年03月02日 23:50 )
人間七七四年 | URL | -
590以下は、一つ下の記事へのレスかな。
( 2013年03月03日 00:33 )
人間七七四年 | URL | -
ちよさんの願いに応じる殿様も良いのだけど、村人達の心意気が素晴らしい。
( 2013年03月03日 15:11 )
まとめ管理人 | URL | wZ.hFnaU
※3
ご指摘ありがとうございます!直しておきましたー
( 2013年03月06日 02:16 [Edit] )
門田繁美 | URL | /C2y6GBk
美談の裏で涙と恨みがある。
片吹村の田を救った「ちよ」は地元では恩人であり美談ではあるが、その川下で岩見井の水を利用する300町歩余りを有する村々にとっては大変な迷惑であり、被害である。
百姓にとって、水は命である。特に旱魃になれば「御殿地」は優先的に水をとり下の田は干上がってしまって収穫皆無になる事もあった。それなのにまだ欲く深く堰石を増やしたり、余水を他村に流したり、嵩にかかってしたい放題
岩見井は揖保川の水を龍野・日飼で堰き止め、龍野の町の中を通って片吹まで通水し、その水を林田川に落とし、さらに林田川を堰き止めて岩見の郷(太子町南部)の田に引き入れるのである。水を引くには、揖保川の堰と林田川と二度の堰を行なわねばならず、大変な労力と資金が必要であり、一大事業であった。
それを何の苦労もなく費用も出さず、水を引くのは泥棒に近い様なものだと言いたい。
百姓の苦労をしらない殿様の気まぐれで、下の村は何百年もの間苦しめられてきた。それが今の時代となっては「ちよ」の家はなく片吹村の殆どの人が、「ちよ」の事も此の堰の話のことを知らず、「姥ヶ堰之碑」は草に覆われている。
何ともやるせない話であり、殿様を恨みたい気持ちである。
( 2014年07月12日 10:07 [Edit] )
コメントの投稿