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領土を半減されたのに

2013年04月18日 19:53

309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/18(木) 00:13:05.52 ID:MED5YaXE
長めの前置き注意

信州の名族小笠原氏は、長時のとき武田信玄に追われ一族流浪の身となったが、
武田家滅亡、本能寺の変、天正壬午の乱を経て、度重なる苦難の末長時の子貞慶が
徳川家康の後援を受け旧領復帰に成功した。

しかし、その後、家康と対立した豊臣秀吉が飛騨を制圧すると、越後に上杉景勝、越中に前田利家、
飛騨に金森長近、木曽に木曽義昌と周囲を豊臣方に包囲された小笠原貞慶は、圧迫に耐えかね
家康の重臣石川数正の出奔に従い豊臣秀吉に転属した。
ところが、まもなく家康は秀吉に臣従、その条件として信濃は徳川家の傘下に入るものとされ、
小笠原貞慶も家康の与力大名となった。

家康と、かつて謀叛をおこした貞慶(及び家康の下に人質としてあったにも関わらず
石川教正に従って脱走した貞慶の嫡子小笠原秀政)との関係には微妙なものがあったらしく
それを慮った秀吉が、秀政と家康の孫娘の婚姻を命じたほどであった。

天正17年貞慶の跡を継ぎ信濃筑摩・安雲両郡『8万石』の領主となっていた小笠原秀政は
家康の麾下に入り、小田原の役に参陣、徳川家が関東に移封されると
秀政は小田原の役での戦功を賞され、下総古河に領土を与えられた。


で、本題の逸話

或る時、徳川家康に豊臣秀吉がこう問うた。
「小笠原信濃守(秀政)には、本領(信濃の旧領のこと)に見合う分の知行を出したか?」
徳川家康はこれにこう答えた。
「この度小笠原信濃守には、一倍を加えて『3万石』を宛行いました。」

これより以前に、小笠原秀政は、聚楽第において豊臣秀吉に朝夕勤仕していたので
小笠原家の領地が筑摩・安雲両郡で『8万石』あることを、秀吉はよく知っていたのであるが、
今般下総国で小笠原秀政の領地が3万石しか与えられていなかったので、
秀吉は、前述のように家康に問うたのだった。

なぜこのようなことになったかというと、小田原に小笠原秀政が出陣した際、
わずか1万5000石分の軍役しか勤めていなかったため
家康はこれを心中に留めていて、前述のとおり(倍の3万石を与えたと)
秀吉に答えたのだということである。

小笠原秀政年譜より。
領土を半減されたのに、何故か倍に加増されたことになっていた話。




319 名前:309[sage] 投稿日:2013/04/18(木) 21:57:36.63 ID:MED5YaXE
ちょっと誤解を招いたかもしれないので>>309の逸話の背景について3点ほど補足を

1.旧領の「8万石」という数字について小笠原秀政年譜でも
秀政が貞慶から所領を受け継いだ天正16年の条に
「筑摩・安雲両郡往古より貫文見積もりの地方であったのを、後に米高に直し、
両郡にて都合8万石」と記載してあるので、
上の逸話の石高も、便宜上、米高換算で8万石相当の領土といった意味合いで使われているようです。

で、8万石という数字の根拠は、後に小笠原秀政が慶長18年に2度目の加増を受けて、
旧領信濃松本筑摩・安雲両郡に復帰した際の石高が8万石だからだと思われます。

2.あと、小笠原秀政年譜には、関東移封の際、領地が「按外に減じ」たため、
大勢の家臣を信濃に残さざるを得なかったが
関ヶ原後の慶長2年に信濃飯田で5万石に加増された際、浪人となっていた元家臣145騎を
召し返した旨の記載があります。

3.そもそもなぜ小田原の役で秀政が1万5000石分の軍役しか務めなかったかについては
小笠原秀政年譜には「この節、公(秀政)一万五千石の格にて家康公に従って彼の表に出陣し」
としか書かれていないので、この史料からは細かな事情は分かりません。

逸話スレなので事の真偽はともかくとして、
この辺のくだりの書きっぷりから醸し出される恨みがましさからすると、関東移封は小笠原氏にとって
本領を離れるということだけでは収まらない結構な危機だったと捉えられていたようです。

ややスレ違い長文失礼しました。



313 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/18(木) 07:19:58.06 ID:BiwbsjNG
実際の話、移封の時点では信濃は検地してないから
8万石なんて石高は確定してなかったりする。

そもそも当時の小笠原、木曽は位置づけがあいまい。
元々は真田も含めて家康の与力大名っぽいのに、関東移封時には
真田はそのままで、小笠原、木曽は家康から所領を与えられる立場
に転落してる。

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/18(木) 10:29:03.16 ID:iQFRMxWP
真田が徳川家臣化に抵抗しなければ同じ境遇になったのでは?

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/18(木) 10:34:31.33 ID:4Ny/bL+r
真田は上田と沼田が別家扱いなんじゃないかな
上田は関東移封に付き合ってないし
上田城が豊臣政権所属の地方中枢拠点の可能性も出てきてるんだろう?

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/18(木) 11:41:51.91 ID:iMZRx233
義昌も一度徳川から離反してるけどな
1万石なのはこれが原因だとは思うが、森林資源は石高に反映されないのもあるんじゃないかな?

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/18(木) 12:06:14.81 ID:4Ny/bL+r
この問題は一言で言えば徳川が諸豪族を味方につけるために
安堵状出しまくり領地重複しまくりが原因
良くあることなのでその後に調整が入って普通は収まるのだが
豊臣という巨大な傘があったから重複して過大に領地のまま豊臣に逃げ込む
その後徳川に戻されて適正地を宛がわれると格段に減封されたように見える

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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    小笠原家は新参譜代で尚且つ訳ありの身?でありながら、徳川幕府成立後、家格の高さが両酒井に匹敵するまで累進するのは何故?

  2. 人間七七四年 | URL | -

    高天神城主、馬伏塚城主で家康に付き従って金ヶ崎、姉川等で戦い抜いて
    三方が原の前哨戦で武田信玄の軍を撃退して守り抜いた遠江小笠原氏は
    武田勝頼に高天神城攻略されて降伏したことが理由で結局武田家滅びた後も
    家康に許されなかったんだよな

  3. 人間七七四年 | URL | wZ.hFnaU

    ※2
    小笠原信興は高天神城の降伏の仕方が非常に評判が悪かったらしい。
    まあ高天神城開城から間もなく病死したとも言われているが

  4. SHIN | URL | B4ff.1Vc

    そもそも真田氏って徳川寄騎だったのかな?
    小田原の陣立て見ると、真田氏は松井田、鉢形、八王子、忍と攻めているんだけど、
    一緒に動いているのは徳川系の軍勢じゃなくて上杉景勝の軍勢なんだよね。
    元々豊臣氏に臣従した経緯も上杉氏経由だし、真田氏って実は結構後になるまで
    秀吉の直臣でありながら徳川、上杉両氏の両属状態だったんじゃないかと思う。

    だから家康の関東転封には付き合わず、その間に豊臣大名としての立場を確立できたから
    上杉景勝の会津転封にも付き合わずに済んだって見る方がいいんじゃないかな。

  5. 人間七七四年 | URL | -

    潰すにゃ名家過ぎるし増長したところで大した脅威にもならないしで持て余し気味ではあったのだろう。
    それよりも小笠原諸島の謂われが謎で…

  6. 人間七七四年 | URL | -

    ※1
    大坂で奮戦したから

  7. 人間七七四年 | URL | -

    ※4
    小田原の陣立書を見ればわかるけど信濃勢はまとめて北国扱いだよ

    真田は最初の上洛直後に家康のところに出仕してるから
    徳川与力扱いなのは間違いない。

    転封が無かったのは、小田原の原因になったせいか、それとも単に
    家康領に接してるからかは不明だね

  8. 人間七七四年 | URL | -

    そういや景勝は天正18年頃に小笠原領へ攻め込んで秀吉から叱責されてたな
    あの頃までは間違いなく大名扱いっぽいが

  9. 人間七七四年 | URL | -

    伊豆「家康公の幼女が貰えると聞いて」
    稲姫「残念、養女だ」
    中書「そして実父だ」

  10. 人間七七四年 | URL | -

    たしか流鏑馬の小笠原流は、惣領家の貞慶から庶流赤沢家へ
    系譜が譲られて続いているって聞いた事が有りますが。
    こうやって見ると馬に縁の深い一族ですね。

  11. 人間七七四年 | URL | -

    このあたりは平山優氏の本に詳しいね

  12. 人間七七四年 | URL | SFo5/nok

    上田に関しては、貫高制を維持していて、豊臣直臣説は否定できるから、上杉が会津へ転封されるまでの上田は、上杉の与力だったのでは?
    政宗関連本の伏見の屋敷絵図に、信之の名前があったこと、秀吉が行きたがっていた草津温泉が、沼田に組み入れられていたから、むしろ沼田が豊臣直臣のような気がする。
    江戸時代の真田は、徳川普代の家格を得ようとしていたから、政治の変遷で歴史が改竄されたのかもね。

  13. 人間七七四年 | URL | -

    石高=豊臣直臣って訳じゃないぞ。

    公儀には石高で換算して報告するだけだからな。
    当時の徳川は俵高だし、苅高の大名だってあったし

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