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阿蘇氏・阿蘇神社の事

2013年04月30日 19:55

461 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/04/30(火) 13:45:20.56 ID:UKq23YV4
阿蘇神社の宮司が纏めた阿蘇神社の本だと鎌倉時代の有力社の甲佐・健軍・郡浦(こうのうら)が末社で、
甲佐社領が四百町前後、健軍社が二百町を越え、郡浦社は正確には確認できないみたいだ。
「阿蘇社宮師長慶譲状」
なんかでは長慶が息子に正覚寺って寺の別当(住職)の地位と周辺の田地、阿蘇本社の供僧職
(阿蘇社に出仕して祭祀を勤める立場、ちなみに『宮師』は阿蘇社十二供僧の内第二位らしい)を
与えてるとあるらしい
公的に建立された寺院とは違い、私的な由緒で建立された寺院には本来国家の保護は期待出来ないけど、
僧侶が神社に属して祭祀に参加すると、その可能性が出てくる、ってこの譲状は示しているそうな

462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/30(火) 14:01:49.71 ID:UKq23YV4
ちなみに戦国時代だと、野外で大宮司が唯一参加する下野狩って大規模な祭があったらしい
上級社家、下級社家、領内の侍、勢子の猟師や領民、供僧から阿蘇山上の僧侶まで、 阿蘇五岳西麓の末端の
原野である下野で、阿蘇社全社領から挑発された数千規模の勢子が五岳の猪や鹿を追い込んで狩って
神に供えるっていう大規模な巻狩だそうな。
この狩りの際の大宮司は白木の弓矢、白皮の弓懸、白皮の沓を履いて、五色の幣を腰に携えるという、
阿蘇神社の主神、健磐龍命(たけいわたつのみこと)に準えて参加したそうで
阿蘇、益城二郡を支配下においた阿蘇大宮司の政治力を示す神事ってことで、阿蘇家の最盛期は
こんなことも出きるくらいの力持ってましたよと。
まあ、天正十年(1582)以降は勢力が衰えてしまって絶えてしまったようだけど…




463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/30(火) 16:08:59.43 ID:PYRrWnfp
阿蘇氏や諏訪氏は神職でありながら大名のような支配力を有していたからな
僧も強大な力を持っていたが、神主はより武士に近い存在だったと言える

464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/30(火) 16:36:23.95 ID://dvgk4Y
寺社家の者に剣豪多いからね。
そもそも歴史を学ぶ上で武家や社家の区別あるが、
当時、しっかり区別されていたかはわからない。
寺の僧兵という言葉も近世から使われだしたと言うし

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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    信長の先祖も神官だよね。ら

  2. 人間七七四年 | URL | -

    阿蘇や諏訪は大社の総社だから有名で影響力もあったわけで
    神職と武士を分ける必要は無い気がする
    地方に勧請した神社の管理を命じられて神職やった武士も居るし
    氏神レベルだと当主が神事を取り仕切ったりしてるし

  3. 人間七七四年 | URL | -

    大宮司さんって知り合いいるんだけど、先祖が何処の大宮司だったのか非常に気になる。
    本人はスーパーでカート並べ直しているらしいが

  4. 人間七七四年 | URL | -

    阿蘇氏、諏訪氏、あと宇都宮氏、いずれも大名として残れなかったな

  5. 人間七七四年 | URL | -

    戦国の神職武士には古代からの武装領主だったパターンと
    中世に入ってから有力武士の家来として初めてor久々に武装したパターンがあるって感じじゃない?
    阿蘇や諏訪は前者、熱田や越前に居た頃の織田が後者

  6. 人間七七四年 | URL | -

    >※4
    諏訪さんは直系は武田信玄にぬっころされたけど
    分家が諏訪高島藩主として明治まで続いたから
    総社の地を治めれた分、比較的マシなほうかも

  7. SHIN | URL | B4ff.1Vc

    諏訪氏の場合、国人である惣領家と神職である大祝家に分かれてて、頼重の時代から
    大祝家は頼重の叔父満隣が継いでたみたいだから分家ってわけでもないんだよな。
    むしろ神職の家系が生き残ったんだから、神代の名族としては一番いい形だったのかも。

  8. 人間七七四年 | URL | eYj5zAx6

     江戸時代、長宗我部家の分家が伊予の伊豫豆比古命神社(椿神社)の社家を継いで、現代まで世襲しているのだけれど、江戸期の社家は剣術の達人が多くて、平成12年まで天保年間から道場と兼用の舞殿(絵馬堂)があった。

     他の藩でも、藩士が社家や僧侶から兵法や学問を(農工商と一緒に)教わっていた例は少なくないみたいです。

     藩からは社家兼医師として遇されていたそうですが、桑名から久松(松平)家と一緒に伊予に入封するまで、どう暮らしていたのやろ。

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