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蒲生氏郷の病

2013年05月19日 19:04

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/19(日) 11:41:02.02 ID:X1lutpHf
会津宰相氏郷、蒲生忠三郎也歳は三十余。
朝鮮征伐の頃に肥前名護屋において患い下血し、諸医が技をつくしたが
堺の宗叔の治療で回復した。私はそのとき朝鮮にいたが帰って上洛した。

翌年の秋、法眼正純(曲直瀬正純)が「氏郷へ養生薬を進上しました」と
言ったとき、私は「名護屋で患ったあと脈は見てないが顔色をみたところ、
顔色が黄黒でやせが目立ち目の下がむくんでいる。もし腹が膨れて足に
むくみが出てきたら助からないので、薬を進上するときは気をつけなくては
いけない」と言った。

11月、太閤秀吉公の御成に私も供奉した時、また顔色をみたところ腫れが
はなはだしく、その後も腫れが増していった。

12月1日、太閤殿下が民部法印(前田玄以)の亭にいた時、施薬院と私の
二人を召して氏郷の病状について尋ねられた。二人は「脈を診ていませんので
判りません」と申し上げた。
薬は誰が与えているのかと尋ねられたので「堺の宗叔です」と申し上げたところ、
左右におられた大納言家康、中納言利家の二人に「諸医を召して脈をとらせよ」
と仰せられた。

即座に上池院、竹田驢庵、盛方院、祥壽院、一鴎、祐安、その他あわせて九人が
氏郷の病床に向かい、家康利家が左右に居るなか諸医が脈を診て退いた。

12月5日、利家家康卿が私と一鴎を召して氏郷の容体を問われた。
私は「十のうち九は助かりません。残る一つは年が若く食欲もあるからです。
なお食欲が減り気力が衰えたら十のうち廿は助かりません」と言った。

利家は残りの医師に一人ずつ尋ねたが、或いは「十のうち五は助かりません」
或いは「十のうち七、八は助かりません」と言った。

利家は宗叔を呼び「玄朔は十に廿、その他の医師も十のうち五、六、七、八は
助からないと言っているがどうか」と言ったが、宗叔は「十に一つは難しいで
しょう」と申し上げた。

その後、利家は私に対して「氏郷の病はますます悪化している。宗叔の治療を
止めて、今日から治療せよ」と言われた。
私は「宗叔が十死と見て諦めたら、数日間投薬してみましょう。そうでなければ
ご斟酌ください」と言った。利家は宗叔を呼ばれその旨を仰せられたが「十に
一つは如何と」申した。

翌文禄4年1月末、宗叔の投薬は止められた。
次第に気力が衰え食欲も減退し、一鴎が投薬を行ったが十余日で亡くなった。

(医学天正記)

蒲生氏郷が病み衰えていく様子が克明に残されたちょっと哀しい話
でも「200%」とか断言しちゃう玄朔さんって…

※同内容
氏郷の所労




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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    この頃から200%無理ってな感じの表現ってあったんだな

  2. 人間七七四年 | URL | -

    管理人さん
    判りにくくて申し訳なかったのですが、医学天正記で私は~と語ってたのは
    二代目道三を襲名した曲直瀬玄朔です。

  3. まとめ管理人 | URL | wZ.hFnaU

    ※2
    ああ、申し訳ありません!直しておきました~

  4. 人間七七四年 | URL | -

    利家さんは何で200%助からない言った曲直瀬さんに交代させたんだろ…
    治療するなら50%言った奴に御鉢がまわるかと思ったが…

  5. 人間七七四年 | URL | -

    曲直瀬さんは当時のNO.1医師だからね。天皇や関白秀次の主治医もしているし
    医師団の見立てでムリと出ているんで、せめて最期は名医に見せてやろうと
    いうことじゃないかな

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