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伊東祐兵、二士を捨て

2013年05月24日 19:51

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 21:49:20.21 ID:Mnno51pM
当主祐兵の大病により、再三にわたる奉行方からの出陣催促を免れて
きた伊東家であったが、京極高次が大津城に立て籠もったことで再び
危機を迎えた。

毛利輝元、増田長盛らは大坂にあって相談し大津城を攻める事にした。
在大坂の大名小名は残らずに出陣させることになったが、軍勢は少なく
立花宗茂、毛利元康に大坂七組の衆を加えて大津城に差し向けた。

この為、祐兵が病気であるなら家来を差し出すよう催促頻りであったので
祐兵は伊東与兵衛平賀喜左衛門を呼び

「私は関東の味方をするが敵中にいる状態で拒めば逆心なりと討ち果た
されるのは必定だろう。一段の害を遁れる為にそなたらに弓鉄砲を添えて
大津へ遣わすが、まったく奉行の味方ではないので心せよ」
と言われた。

両人は畏まって御前を退出したが、伊東与兵衛が平賀に向かって「功を
立てるべき戦ではなく、敵に寝返りを悟られれば主君の大事ともなる。
我らは討死してみせるより他はない」と言い、平賀も「そうですな」と答えた。

伊東与兵衛は秘蔵していた刀に小袖を添えて寺門に至り後生を菩薩に頼んで
大津へと赴いた。

伊東勢は立花宗茂の手に属し仕寄をつけた。もとより討死と思い定めた
者どもであったから、立花家のものよりも前に出て進んだので、宗茂も
心のうちを知ることも無く「伊東殿はよき侍をもっておられる」と言い、
たびたび褒美があった。

九月十一日の城攻めで伊東与兵衛は前後を顧みずに、真っ先に進んで
乗り入れようとしたところを城兵の槍七八本を突きたてられ、平賀も
続いて討死したので祐兵は急難を遁れた。

そして濃州関ヶ原において九月十五日に家康公は勝利を得られ
祐兵に別心なき事を聞き届けられた。

(日向記)

伊東祐兵、二士を捨て害を免れる事と題された話





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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    まぁ、すぐに病死しちゃっているから、
    一足早い殉死みたいなものだな…。

  2. 人間七七四年 | URL | -

    一度島津に壊滅させられただろうにこんな家臣がまだいたなんて伊東家すごいな
    三強の影に隠れがちだけどさすが九州武士というか

  3. 人間七七四年 | URL | -

    あの大友義統にも石垣原の戦いの時に命を投げ捨てて戦った配下がいるし名家の家臣団というのは、やっぱりそれだけで財産なんでしょうね。
    実話かどうかはともかく秀吉が家康の家臣団を羨んだという逸話にも納得行くなぁ…

  4. 人間七七四年 | URL | 3v9IlUEY

    義祐関連で伊東家を離れても、祐兵時代に戻ってきたのも多そうだな
    米良矩重は島津を無断出奔しているし

  5. 人間七七四年 | URL | -

    宗茂さん事情知らないから純粋に「伊東家の人凄い!」と思ったんだろうな…

  6. 人間七七四年 | URL | -

    ※5
    勇敢で知られた立花兵の前を進むんだもんな
    そりゃ感心もするし、命を捨てて寝返りを隠してるなんて気づかんわなぁ。

  7. 人間七七四年 | URL | -

    まぁ島津との明暗分けた木崎原も島津300のうち生き残ったのが40数名と考えると伊東もやっぱ弱くはなかったんだろう
    ほんま九州は修羅の国やでぇ…

  8. 人間七七四年 | URL | -

    何と言っても、この「討ち死にすべき」「そうですな」と言える心が凄い。
    忠義でも有るだろうし、武士の心構えを現した逸話なのでしょうね。

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