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米良美濃守、薩州を退いて当家へ帰参の事

2013年05月30日 19:56

373 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/30(木) 06:18:53.27 ID:NLkeaN4h
米良美濃守、薩州を退いて当家へ帰参の事

先年、米良美濃守(矩重)は当家の恩を忘れ、領する所の三ツ山、
須木の地を島津兵庫頭(義弘)に捧げて背いた。

これが伊東家没落の始まりとなり、ことに天正五年に島津義久が
日向へ出陣した時には先鋒を命じられ、一番に乗り入れた事で本領
を安堵され義久の幕下となっていた。

しかし美濃守は一時の恨みで数代の主君を裏切った事が心の重荷と
なり日夜苦しみつづけていたが、天正十五年の九州征伐後に祐兵が
飫肥の領主として復帰する事を知った。

美濃守は生きて日々を不快に過ごすよりも、帰参して先非を懺悔
してから殺された方が良いと考え、密かに薩摩を立ち退き祐兵の
前でその旨を述べた。

敵ともなり味方ともなるのは勇士の習いでもあるが、かの美濃守の
反逆は随一のもので、特に島津の先鋒となり国を乱したものである
から死罪にするのが当然であろうと誰もが考えていた。

しかし祐兵は先非を悔い死をもって詫びようと言うのは奇特である
として御感浅からず、その罪を許してすぐさま知行を与えた。

米良美濃守は、祐兵逝去の後も修理大夫祐慶に仕えて清武の地の
地頭に任じられたが程なく病を得て亡くなった。

末期の際に嫡子勘之助に「私が先非を悔い当家へ戻った時、その罪
を許しあまつさえ深く情けをかけていただいたので面目を保つこと
が出来た。祐兵様が逝去なされた時には報恩の為に殉死しようと
思っていたが、世は静かならずして祐慶様も幼年であられたので、
死をもって忠功を果たす機会も別にあるだろうと止めていたところ、
更に当地の地頭まで任され、その厚恩ははなはだしい。汝は祐慶様
に忠節を遂げ殉死の約束をして欲しい」と言い残した。

これにより祐慶逝去の際に勘之助は殉死を遂げた。

(日向記)

一度は謀反までした米良美濃守が前非を悔いて忠節を尽くす話

米良美濃守が伊東家に背いた話しは下記を参照
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7574.html





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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    実のところ、矩重は島津への忠義のために伊東に戻った可能性もあるんじゃなかろうか

    島津家は秀吉に屈した際に、領地を減らされた家臣の禄を、減らされず済んだ家臣の領地から割いて与えることをせず(できなかったとすべきか)、商人から借財するくらいに窮乏する始末だった
    矩重の給地のある須木や三ツ山は島津領として安堵された地で、矩重が出奔すればその分だけ給地が浮くから、少しだけど島津は経済的に助かるんだよね

  2. 人間七七四年 | URL | -

    ※1
    それはないかなー
    須木や三ツ山の地頭職は鎌田政年だったし。

  3. 人間七七四年 | URL | -

    ※2
    まぁ、ないかもね

    ただ、桑波田興氏の説を支持すれば、島津に於ける地頭は恒久的立場でもイコール領主でもない上に、給地全部を与えられた存在でも自由に衆中に対し贈与減封できる立場にもないということを鑑みると可能性はあろうかと

  4. 人間七七四年 | URL | -

    マイナーすぎて何が何やらさっぱりわからん

  5. 人間七七四年 | URL | sSHoJftA

    島津への忠義説は無いだろう。
    息子まで殉死させる意味がわからんもん。

  6. 人間七七四年 | URL | -

    流石に島津家への忠節の為ってのは無理が有る気がします。
    武士の裏切りなんて世の常ですし、別段譜代でも無いし、
    そこまでの思い入れは無いでしょう。
    なればこそ、旧主家に対しての想いで悩んでいた訳だし。

    もし忠義に依る出奔なら、伊東家からの扶持を幾らかでも
    島津家に流した方がより一層マシになるのにしていない。(流すのも難しいが)
    また、嫡子も殉死してしまっては家が続かない。
    (勘之助は28歳で亡くなっているが、子孫が居たかは調べが
    付かなかった)

  7. 人間七七四年 | URL | -

    ※4
    そんじゃ日向記にはメジャーな戦いもそれなりに載ってますから
    そのうち書き込みましょうかね。

  8. 人間七七四年 | URL | -

    ※6
    可能性の論拠とする前提条件が、米良駿河守が米良矩重と同一人物であるという点にあります
    史書の記述内容から鑑み、その確率は高いと思われますが確定ではありません
    それが同一人物と言う事になれば、御指摘の思い入れという部分はないとはいえなくなりましょうが、同一人物でないとなればおっしゃるとおりかも知れません
    もう一点、関係しうる要素として、矩重の逆修塔の建立時期と入道時期がありますが、これが全くの不明ですので、伊東帰参以後の矩重と須木ならびに一麟寺との結びつきが明白とならないという欠点が生じます
    全てを否定すれば無いと断言可能ですが、可能性としてあると認めた上は断言には至れないものと存じます
    また、木崎原合戦後の須木米良氏に対する島津側の対応が、純然たる伊東家臣に対する対応とは異なる点も私の内での論拠ではあります
    まぁ、平行線となりそうですので、これ以上のコメントは差し控えます
    長々と失礼いたしました

    ちなみに勘之助の子孫ですが、直系であるかは判りませんが存在しますよ

  9. 人間七七四年 | URL | -

    ※8
    自分が言いたいことだけ書いてハイサヨナラって、かなり駄目な人だと思う。

  10. 人間七七四年 | URL | -

    ※4
    誰でも知らない事はたくさんあると思うけど
    明らかに一般的ではない専門的分野のサイトに来て
    島津家と伊東家の戦いに関連してる話程度で「マイナー過ぎて分らない」って書き込むのは
    法事の集まりの席で大人の話が分からなくて、一人駄々をこねている親戚の子供のように見えるよ

  11. 人間七七四年 | URL | -

    ※10
    少し言い過ぎではないでしょうか。

    逸話の楽しみ方は人それぞれで千差万別ですし、そもそも※4さんが
    マイナー過ぎてと言ってのは※1~3の流れの事かもしれませんしね。

    もう少し寛容でも良いのではないでしょうか

  12. まとめ管理人 | URL | wZ.hFnaU

    マイナーな所をここで知って、そこから興味を持って調べてみたりして頂けると嬉しいですねw

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