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三十六人逆徒追伐の事

2013年05月31日 19:50

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/31(金) 17:40:33.82 ID:n1lUYz8+
三十六人逆徒追伐の事

去る天正十五年六月に祐兵様が日向に戻って以来その統治は四年に及ぶが
入国の翌年にようやく飫肥本城を請けとるという不安定な状況でもあり、
かつての家臣を手に加えようと御憐憫を加えられ、家風の形儀をも確とは
定めていなかった。

その為か遠近に分散せし譜代の士には、十年にも及ぶ島津の風俗に馴染み
なんでも我意を主張する者も多く、最近になって召し抱えた侍もあるので
すぐに帰参した者たちでも人によっては扶持が少ないと御暇を賜るものも
多かった。

そうしている間にも家臣間で談合するものがあり「よろず御奉公を致すと
言えども一味同心して忠を遂げよう。身の大事と成る事があれば、一同で
申し開きをしよう」などと内談し党を結び血判をしていた。
その数は三十人余りでなお増えつつあると言われていた。

ある日、河崎権介は曾井に在城していたが、そこに談合していた連中の
うち二人が「義賢様を守護とするべき旨を申し合わせて謀反を企んでいる」
と密告してきた。

これをうけ祐兵様は悪逆の頭人を討伐し残党は鎮めるようにと指示され、
七人の頭人が各地でそれぞれ討ち果たされた。

残党の輩はなだめられたが従わず、その旨を祐兵様に窺ったところ、
その者達にはさっそく腹を切らせよと仰せられ、これに御馬を向けられる
事となった。

残党は、曾井麓の源藤というところにある初瀬山長命寺の観音堂が立て
籠るに相応しいと考え、天正十八年八月二十八日に三十六人の者どもが
立て籠もった。

討伐側は、曾井は言うに及ばず清武・田野・紫波須崎の三ヶ所から馳せ
集まって一戦に及んだ。

田野衆は威徳山から観音堂を眼下に見て、鉄砲をつるべ打ちに打ち込んだ。
これで籠ったものどもは身動きが取れなくなったが、遁れる道もなかった
ので命を捨てて一時に切り出てきた。

寄手は大勢だったので八月三十日、一刻の間にこれをやすやすと鎮圧し、
二十四人を討ち取り残り十二人が遁れていった。寄せ手は八人が討死した。
これにより祐兵様はお仕置きを終えて御帰館なされた。

(日向記)

徒党を組んで我意を通そうとした家臣達を討伐した話。

これを見ると新生伊東家も家中の統制を重視する豊臣大名ですね。
我意の強い家臣を「島津の風俗に馴染んだ」とか言い切ってしまう
ところを見ると、義久や義弘が家臣達の統制がとれずに書状で嘆く
のも仕方ないかなぁとも思ってみたり





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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    藩政時代は家臣が組んで争って潰れた家もあるし、
    火種を早いうちから潰せたと思えば安いもの…。

  2. 人間七七四年 | URL | 3v9IlUEY

    まぁ日向人は芋がらぼくとだから……
    今でも島津の圏内だった都城や小林は気荒く個性的な人物が多いとか云々

  3. 人間七七四年 | URL | -

    三歳様の自己正当化の逸話かと思ったら…

  4. 人間七七四年 | URL | -

    >島津の風俗に馴染んだ

    伊東家に最仕官してから、不満があった時に
    「島津時代はよかったなー」とか
    ぶつぶつ文句言っている人がいたのを、
    こういう表現してるんじゃないか、と思った。

  5. 人間七七四年 | URL | -

    思えば、島津家も良くも悪くも個性豊かというか個性的な家臣が多いイメージだな
    デ新納とか中馬とか上井とか伊集院とか
    黒田とか三河とはまた違ったベクトルで個性豊かと言うべきか

    まあ、地味な家臣というか、大人しい家臣しかいない家の方が少ないのかもしれないけども

  6. 人間七七四年 | URL | -

    「36人・・・?これは天が刀に新しき良き名前を付けろという思し召しじゃ」

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