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龍造寺隆信の相続

2013年06月03日 19:51

775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/03(月) 00:06:53.76 ID:OGuKHfpT
天文17年(1548)3月22日、龍造寺豊前守胤栄が卒去された。
この方は大内氏の推挙により肥前国の守護代を務められ、五千町を加封し人尽く従った。
胤栄公の夫人は龍造寺家門の娘であったが、胤栄公との間には姫が一人あるだけで、
家を継がれる男子は居られなかった。

このため重臣である小川筑後守や龍造寺播磨守などが相談し、還俗して水ヶ江龍造寺氏を継がれた
龍造寺胤信公に、龍造寺の嫡流を継がせるべしと迎え取り、先君胤栄公の未亡人と結婚させ、
龍造寺の御家督と仰ぎ奉った。

同18年、大内義隆より隆の偏諱を頂いて、龍造寺山城守隆信と名乗られた。
小川筑後守、納富左馬介、福地主計充といった人々が家老として支えた。

御一家は皆、隆信公に拝謁の礼を取ったが、公は普段から不敵な心を持った方で、
威儀を専らにせず事毎に軽々しく振舞ったため、一門の龍造寺鑑兼の周辺などでは
内々にこの新当主を侮る輩も多かった。

また隆信の夫人も、既に御歳も盛りを過ぎ、先公とのお別れで悲しみに沈む中、
公を弔いのため一心不乱の心であった所を、自身を隆信公の御台とされるべき、などと
聞こえてきて、なんと浅ましいことかと思い沈んだのであるが、老臣達によってこの旨が
決せられ、御家相続のためであるため、気分の気持ちを押し殺して隆信公の室と
なられたのである。

だが、夫人は先君のことを忘れられず、明け暮れに思い泣かれ、
隆信公とは親しむ様子もなかった。

このため夫人の周辺の人々にも、隆信公を侮る人々が集まり、これに家老の面々は、
これは御家敗亡の兆候であると嘆いたがどうしようもなく、
龍造寺播磨守などは妻女を通じて夫人に色々とご意見したものの、全く聞き入れようとはされなかった。

後に聞こえたことによると、龍造寺の老臣であった土橋伊賀守栄益などは、最初から
隆信公を侮り、龍造寺鑑兼を家督に立てたいと思い、夫人に対し様々に讒言していたそうである。
(肥陽軍記)

隆信が龍造寺家を継いだ時期の、その家中の不穏さを伝える逸話である。




776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/03(月) 09:18:35.50 ID:FcPZ+TnG
この後大寧寺の変で不満分子によって早速追放されたのは
復帰後に隆信派で固めることもできて
逆に僥倖だったのかもしれないかな?

777 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/06/03(月) 11:01:26.18 ID:0qGhBGw1
後家になって自ら鍋島清房に嫁いだ慶誾尼とは対照的だな

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/04(火) 06:47:26.20 ID:psKLVZ+m
我が子の為、との思いの有無が大きいんじゃね?
あと当の慶誾尼とソリが合わなかったとか


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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    家兼さんが早死にしちゃったからね。仕方ないね

  2. 人間七七四年 | URL | vEmrOf96

    あと20年は生きて隆信を後見してほしかったね>剛忠様

  3. 人間七七四年 | URL | B4ff.1Vc

    なんで女じゃなくて未亡人本人が嫁いだんだろうね。
    胤栄の女は小田政光の子に嫁いでるみたいだから年齢的に若すぎたのかな…

  4. 人間七七四年 | URL | mQop/nM.

    >>1
    92じゃまだまだ若いよね~

  5. _ | URL | -

    ひいおじいさん(龍造寺家兼)が子と孫を皆殺しにされて唯一残った曾孫(隆信)を云々~
    みたいの読んでたからもっと幼いかと思ったら家督ついだの16-17歳になってからだったのか。

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