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秀吉公山崎合戦で佑兵へ槍をたまわる事

2013年06月07日 19:50

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/07(金) 18:50:45.19 ID:9xWeM5LF
秀吉公山崎合戦で佑兵へ槍をたまわる事

伊東佑兵は秀吉の麾下にあり、備中御陣よりこのかた片時も離れずに
随行していた。

惟任日向守が敗れた時、立派な鎧をまとった武者が一騎で落ちて行った。
秀吉公はこれをご覧になって「能き敵であるぞ、若き者ども討ち取って
高名せよ」と仰せられ「我こそが討ち取らん」と逞しきものが四、五騎
ほど出撃していった。

佑兵はこの中を駆け抜け「返せきたなし」と呼ばわったところ、敵も
もはや遁れ難しと思い引き返してきた所、これをすかさず組み伏せて
討ち取った。

秀吉公はこれを望見して「只今、庵に木瓜の旗をつけて敵を討ち取った
のは日向の伊東ではあるまいか」と仰せられていた所へ、佑兵がかの首
を持参し実検に備えた。

秀吉公の御感浅からず、南都金坊左衛門尉政則が打った三尺長身にくり
から龍を彫り熊の皮の投げ鞘をつけた御槍を手ずから賜り面目を施した。

その槍は今も相伝して家宝としている。

六月十三日、惟任はついに討たれたので秀吉公は凱旋され、信長公の
葬事を営み、大徳寺の塔頭として一宇を建立し総見院と号された。

それから秀吉公は尾州へ向かわれ、織田の幼主を安土城へお入れして、
十一月には江州長浜へ御出陣、濃州一国を平均に討ち靡けてから宝寺城
(山崎城または天王山城とも呼ばれる)に御帰城された。

(日向記)

日向記に記された山崎の戦いの様子なのだが戦の内容は全てスルー。
まあ佑兵は秀吉の馬廻でしかないから仕方ないんだけど…





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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    伊東祐兵ってラスボスのとこで槍働きもやってんのか、名家の子なのに・・・没落すると大変だわ。
    一緒についてきた川崎祐長なんかはともかく、国元に残った米良とか山田とかの旧臣がこれ知ったら、複雑な気分になりそうだ。

  2. 人間七七四年 | URL | -

    安土城ってノブオが焼いてしまったと思っていたが、
    まだ使用可能だったのか…

  3. 人間七七四年 | URL | -

    ※1
    最初は30人扶持の馬廻でしかなかったしねー
    賤ヶ岳の後に河内で500石になって、九州征伐後に日向へ復帰。

    秀吉のサクセスロードにうまく乗ったとも言える。

  4. 人間七七四年 | URL | -

    伊東さんは尾張に遠い親戚がいて本当に良かったよね。
    本当なら河野のところでずっとくすぶってたよ。

  5. 人間七七四年 | URL | -

    ※2
    安土城全体が焼けてしまった訳では無くて、2の丸3の丸はほぼ無事。
    御殿を2の丸辺りに造営した。
    放火犯に関しては諸説あるが、最近は野党説が強め。

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