315 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/12/13(土) 17:23:52 ID:sqbzCnpG
田峯城の惨劇
三河国奥三河地方に勢力のあった山家三方衆の一つ、田峯菅沼氏のお話。
田峯菅沼氏の4代目、菅沼定継は今川義元に属していたが、弘治2年(1556年)、同じ山家三方衆で
義弟の奥平貞勝とともに叛旗を翻した。ところが、実弟菅沼定直らは兄に従わず、肉親同士で合戦
する結果となった。
結局、半年後に奥平貞勝は降伏、菅沼定継は追手に追われ、居城に着くことも出来ず自害して果てた。
定継には小法師という幼児がおり、菅沼定直らは小法師を惣領にいただき従来以上に今川氏に尽した。
それから20年後、
小法師は成長して菅沼定忠と名乗り、武田勝頼に属していた。天正3年(1575年)、武田軍の長篠城
攻めが開始されると、定忠もこれに参加。5月21日の長篠の戦いで武田軍が大敗すると、疲労困憊の
勝頼に休息をとらせようと、田峯城に案内する。
ところが、城内では留守居役の叔父菅沼定直、重臣今泉道善が謀反を起こし、入城を拒否するだけで
なく、勝頼の首をとろうと出撃してきた。定忠らは大変な苦労のうえ、何とか勝頼を武節城経由で
信濃へ逃すことに成功した。この上ない屈辱を味わった味わった定忠は復讐を誓った。
およそ1年後、
天正4年7月14日早朝、軍勢を率いた定忠は田峯城を急襲。城にいた老若男女96名全員を殺戮。前年の
謀反首謀者である菅沼定直、今泉道善らに対しては、生きながら鋸引きの刑に処した。
定忠は最後まで勝頼に尽し、天正10年5月10日、信濃国知久平で戦死、田峯菅沼氏は断絶した。
現在、城跡には本丸御殿、本丸大手門、搦手門が復元され、付近には首塚や道善畑が残り、往時を
彷彿とさせます。設楽町へお越しの際は、是非お立ち寄りください。
316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/13(土) 17:25:42 ID:igyG50rS
行ってみたいけど楽しい気分には成れなさそうだw
317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/13(土) 17:46:21 ID:uUxvWZUl
なんとまぁ…
318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/13(土) 17:47:29 ID:54BG2who
こんなことがあったのに小山田を頼る勝頼って哀れだな
319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/13(土) 20:00:05 ID:bgq6DYcz
天正10年5月10日って武田滅亡後だなと思ったら、滅亡後に家康に赦免を
願い出たが許されずに殺されたんだな。このことがあったからなのかな。
329 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/12/13(土) 23:05:42 ID:m09NLPpZ
>>319
家康公は基本的に、"武田滅亡時"に"徳川を裏切って武田についた連中"をほっとんど許していない
例外は奥平信昌の親類筋ぐらい
331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/14(日) 00:59:04 ID:5tlr3Y6S
>>329
小笠原長忠の末路なんかは、孕石元泰の最期なんかよりも
後味悪いしね・・・。まあ仕方ないといえばそうかもだが。
332 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/14(日) 01:12:06 ID:BmtCvSMU
あれだけ援軍無しで耐え忍んだのに山岡荘八の「徳川家康」では
利に敏い裏切り者扱いされてる小笠原長忠は哀れすぎる
つうか人気有る武将に下手に関わると悪者にされて損だな
334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/14(日) 07:24:55 ID:TEkxbKa6
>>331
孕石元泰ってよく見たら改名前の家康と名前の読みが同じなんだな。
「もとやす殿は立派なお方ですなあ。あ、いや、松平さんちの方ね。」
「おうコラ、てめえ俺と同じ名前なんて生意気なんだよ!」
みたいな事があったのかも。家康もそれで苦い思い出があるから元康を捨てて改名してたりして。
335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/14(日) 10:48:18 ID:F3pLsSYY
さすがに隣に住んでいた頃は竹千代だろう。
田峯城の惨劇
三河国奥三河地方に勢力のあった山家三方衆の一つ、田峯菅沼氏のお話。
田峯菅沼氏の4代目、菅沼定継は今川義元に属していたが、弘治2年(1556年)、同じ山家三方衆で
義弟の奥平貞勝とともに叛旗を翻した。ところが、実弟菅沼定直らは兄に従わず、肉親同士で合戦
する結果となった。
結局、半年後に奥平貞勝は降伏、菅沼定継は追手に追われ、居城に着くことも出来ず自害して果てた。
定継には小法師という幼児がおり、菅沼定直らは小法師を惣領にいただき従来以上に今川氏に尽した。
それから20年後、
小法師は成長して菅沼定忠と名乗り、武田勝頼に属していた。天正3年(1575年)、武田軍の長篠城
攻めが開始されると、定忠もこれに参加。5月21日の長篠の戦いで武田軍が大敗すると、疲労困憊の
勝頼に休息をとらせようと、田峯城に案内する。
ところが、城内では留守居役の叔父菅沼定直、重臣今泉道善が謀反を起こし、入城を拒否するだけで
なく、勝頼の首をとろうと出撃してきた。定忠らは大変な苦労のうえ、何とか勝頼を武節城経由で
信濃へ逃すことに成功した。この上ない屈辱を味わった味わった定忠は復讐を誓った。
およそ1年後、
天正4年7月14日早朝、軍勢を率いた定忠は田峯城を急襲。城にいた老若男女96名全員を殺戮。前年の
謀反首謀者である菅沼定直、今泉道善らに対しては、生きながら鋸引きの刑に処した。
定忠は最後まで勝頼に尽し、天正10年5月10日、信濃国知久平で戦死、田峯菅沼氏は断絶した。
現在、城跡には本丸御殿、本丸大手門、搦手門が復元され、付近には首塚や道善畑が残り、往時を
彷彿とさせます。設楽町へお越しの際は、是非お立ち寄りください。
316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/13(土) 17:25:42 ID:igyG50rS
行ってみたいけど楽しい気分には成れなさそうだw
317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/13(土) 17:46:21 ID:uUxvWZUl
なんとまぁ…
318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/13(土) 17:47:29 ID:54BG2who
こんなことがあったのに小山田を頼る勝頼って哀れだな
319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/13(土) 20:00:05 ID:bgq6DYcz
天正10年5月10日って武田滅亡後だなと思ったら、滅亡後に家康に赦免を
願い出たが許されずに殺されたんだな。このことがあったからなのかな。
329 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/12/13(土) 23:05:42 ID:m09NLPpZ
>>319
家康公は基本的に、"武田滅亡時"に"徳川を裏切って武田についた連中"をほっとんど許していない
例外は奥平信昌の親類筋ぐらい
331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/14(日) 00:59:04 ID:5tlr3Y6S
>>329
小笠原長忠の末路なんかは、孕石元泰の最期なんかよりも
後味悪いしね・・・。まあ仕方ないといえばそうかもだが。
332 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/14(日) 01:12:06 ID:BmtCvSMU
あれだけ援軍無しで耐え忍んだのに山岡荘八の「徳川家康」では
利に敏い裏切り者扱いされてる小笠原長忠は哀れすぎる
つうか人気有る武将に下手に関わると悪者にされて損だな
334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/14(日) 07:24:55 ID:TEkxbKa6
>>331
孕石元泰ってよく見たら改名前の家康と名前の読みが同じなんだな。
「もとやす殿は立派なお方ですなあ。あ、いや、松平さんちの方ね。」
「おうコラ、てめえ俺と同じ名前なんて生意気なんだよ!」
みたいな事があったのかも。家康もそれで苦い思い出があるから元康を捨てて改名してたりして。
335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/14(日) 10:48:18 ID:F3pLsSYY
さすがに隣に住んでいた頃は竹千代だろう。
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