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福永の逆心により没落する事

2013年06月20日 19:54

902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/20(木) 15:20:20.19 ID:AzboqeYI
福永の逆心により没落する事

福永らは天正五年十二月七日夜半に薩摩勢を野尻城へと引き込もうと計画し、高原城の
上原長門守と示し合わせた。

まず三百余りの兵を野尻へと攻め込ませ、これにより薩摩勢侵入と喚きたてたので山東
からの添番衆は胆をつぶして逃げ帰った。

翌八日、三位入道(伊東義祐)殿はこれを聞いて軍勢を率い紙屋まで出陣したが、同日
島津義久も大軍を率いて野尻の城へと攻め込んで来たので、戸崎城も守り難くなり
陣屋へ火をかけ山東に退くように指示された。

野村の一党は福永にとってはあるいは甥、あるいは従弟であったのでかねて同意していた
通り、そこかしこに叛乱の火の手をあげた。

三位入道殿はこれを見て後背を遮られては不味いと急いで軍勢を引き下がらせた。

それより数多の逆心の与党どもはあるいは家に火をかけ、あるいは城を囲むなど思うがまま
に振る舞った。

この状況では、いずこを味方と頼りようもなく三位入道殿は一門の侍、譜代の歴々を召し
集めて評定を行ったが、にわかに名案を出せる人もいなかったので「しからば居城を去らずに
一戦を遂げ、討死を遂げよう」と仰せられた。

大将一同は「まず御命をまっとうして、敵を滅ぼすことこそ良将でありましょう。」と申され
「早々に屋形を落とさせ、山中の様子をご覧になられ、米良山をお頼りになってそこから肥後
か豊後へと向かわれるのが良いでしょう」と申しあげた。

三位入道殿は「それも理である」と思われ、九日の明け方に佐土原を捨てられ、三位入道殿、
佑兵に一門の侍が供奉して財部へと退かれた。

その時、東光坊と言う山伏に栗木太郎五郎を添えて財部城に送り通路を求めた。

財部城主落合藤九郎は元来小男であったので、三位入道殿はこれを「ひきう人」と常に呼ば
せていた。

落合藤九郎はこの時「一城の主たるものをひきう人などと名付けて取り次ぎをされた事は
遺恨である。その上朋輩間の若衆で争論になった際に落合丹後守(藤九郎の息子)を成敗
されるなど、どこをとっても恨みが多い」と怒鳴りつけ、かの東光坊を討ち殺してしまった。

栗木はこれを見て急ぎ馳せかえりこの事を告げたが、城からはさらに足軽が少しばかり走り
出てきて矢を射かけてきた。

三位入道殿は「これでは行末も覚束ない。ここで腹を切るべし」と言われたが、供奉の人々は
「もっともではございますが、まずは義賢様・佑勝様の到着を待ってから御思案なされては」と
申し上げていると、そのうちに都於郡から義賢様・佑勝様と一門の衆その他が退いて来て、
これに追いつかれた。

改めて開いた評定では「まず穂北をお頼りしましょう。大将の命は惜しむべきものであり、
たとえ野に伏せ山に寝ても命あれば運をひらくことも多かろう」と定まった。

穂北城主長倉洞雲斉は嫡子藤七郎をひそかに花園原まで迎えに行かせた。
長倉家は数代一門に組まれ御重恩に報いる為にと、格別に御馳走を致されたので、かの城に
一宿して翌十日には米良山に入られ、長倉藤七郎も三十町ばかり案内を勤めた。

誠に身分の高い者も卑しいものも流浪の身ほど悲しいものはないであろう。

(日向記)

福永丹波守の謀反による伊東家の日向没落の様子である





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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    「ひきう人」は卑怯人ってことだろうか?
    でも、それだと小男は何も関係ないよなぁ…

  2. 人間七七四年 | URL | -

    たぶん「ひきうど」でしょう漢字だと「低人」。
    「ひきひと」とも読みますが。

  3. ※1 | URL | -

    ※2
    おお、低人ですね。なるほど。
    辞書に載っていましたが今は使っている所を見ませんね。
    現代の「チビ」よりも酷い言葉のようなので、
    確かに恨みの原因になるのも納得です。

  4. 人間七七四年 | URL | mQop/nM.

    地元の知ってる地名がいっぱいだ。三位入道の豊後落ちが絵に見える。

  5. 人間七七四年 | URL | -

    ×佑
    ○祐


    な?

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