551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/22(土) 15:18:50.34 ID:/wrYC/HC
関ヶ原の敗北の後、宇喜多秀家は伊吹山に隠れ、その後忍んで大阪に向い、そこから船で薩摩に下って
島津を頼んだのだが、このことが徳川家康の上聞に達し、秀家を差し出すようにとの旨が薩摩に仰せ下された。
しかし島津はこれを承ると
「古より、我が家は我々を頼み来た人物を、差し出した例はありません。このような事ですので、たとえご不審を
被ることになろうとも、その仰せを受けることはできません。」
と言上した。
ところが秀家はこれを知ると
「私のことで、島津家に大事を起こすのは本意ではない。速やかに出て、誅に服したい。」
と言い出した。
ここで島津家は又
「秀家殿の一命をお助けに成るにおいては、その身柄を差し出します。」
と申し上げ、これを家康が許諾したため、秀家は死罪一等を免じられ、遠島となり、
子息の侍従殿、並びに次男とその子の計3人、供侍5人(姓名失念)と、八丈島に流された。
この時宇喜多秀家は剃髪し、名を休福と改めた。
秀家は長寿で、80歳あまりまで島に在った。
寛永年間に二人の子息、そして供侍も先に死に、秀家は獨父となって後年亡くなった、と云う。
(戸川記)
関ヶ原の敗北の後、宇喜多秀家は伊吹山に隠れ、その後忍んで大阪に向い、そこから船で薩摩に下って
島津を頼んだのだが、このことが徳川家康の上聞に達し、秀家を差し出すようにとの旨が薩摩に仰せ下された。
しかし島津はこれを承ると
「古より、我が家は我々を頼み来た人物を、差し出した例はありません。このような事ですので、たとえご不審を
被ることになろうとも、その仰せを受けることはできません。」
と言上した。
ところが秀家はこれを知ると
「私のことで、島津家に大事を起こすのは本意ではない。速やかに出て、誅に服したい。」
と言い出した。
ここで島津家は又
「秀家殿の一命をお助けに成るにおいては、その身柄を差し出します。」
と申し上げ、これを家康が許諾したため、秀家は死罪一等を免じられ、遠島となり、
子息の侍従殿、並びに次男とその子の計3人、供侍5人(姓名失念)と、八丈島に流された。
この時宇喜多秀家は剃髪し、名を休福と改めた。
秀家は長寿で、80歳あまりまで島に在った。
寛永年間に二人の子息、そして供侍も先に死に、秀家は獨父となって後年亡くなった、と云う。
(戸川記)
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コメント
人間七七四年 | URL | -
獨父ってなに?
そのまま理解するとシングルファザー?
( 2013年06月23日 02:07 )
人間七七四年 | URL | -
子に先立たれた父親って意味じゃない?
秀家の場合は本人も長寿だし仕方ないけど
( 2013年06月23日 02:19 )
人間七七四年 | URL | -
信之兄ちゃんも子供に先立たれてるし、
本人が長寿だからとはいえ子供に先立たれるとつらいだろうな
勝成も嫡男に先立たれなかったとはいえ勝成死後四年で死んでるし
( 2013年06月23日 16:33 )
人間七七四年 | URL | -
そういや義弘さんも、本人は80過ぎまで生きたけど、五人くらいいた男子のうち三人が夭折、久保が朝鮮で早死にして唯一生き残った(自分より後に死んだ)男子が悪久のみだし
三歳様も、確か忠利に先立たれた時、凄い悲しい手紙を孫宛に出してたし(うろ覚えだがまとめで読んだ気が)
元就さんも隆元兄さんに先立たれて大いに嘆いたらしいし
長生きしても自分の子に先立たれたら、やっぱり気落ちするのはいつの世も変わらんものだな…
( 2013年06月23日 17:23 )
人間七七四年 | URL | -
秀家の生涯を考えると人間何が吉と出るのかわからんなぁって思う
現代の俺たちの世代だと重圧から逃れて離島で長生きした秀家は羨ましく感じる人も多いんじゃないかな
( 2013年06月23日 19:31 )
人間七七四年 | URL | -
「古より、我が家は我々を頼み来た人物を、差し出した例はありません」
月照「確かに差し出さなかったけどさあ・・・・・・」
( 2013年06月23日 20:24 )
人間七七四年 | URL | -
羨ましくは感じないかな
重圧から逃れても良くなるわけでもないし
( 2015年02月12日 11:33 )
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