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しかしながら、嫡子の明成がいる。

2013年10月04日 19:43

431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/04(金) 17:51:34.82 ID:fpB3YH0E
寛永四年三月十四日、加藤嘉明は新恩二十万石を賜り、松山から会津への移封を命じられた。

この時、嘉明は「かたじけなき恩命を拝受いたしましたが、会津は枢要の地でございます。
しかしながら、今となっては家臣の武事に馴れた者もすでに亡くなってしまいました。

この地を守る役目におこたえすることができません。できることなら、松山にいたく存じます」
と、これを辞退した。これに対して(将軍の?)「しかしながら、嫡子の明成がいる。

彼がどうしてお前に劣るだろうか。無理に辞してはならない」との仰せがあったので、
嘉明はふたたび断るまでもなかった。そして会津に移り、四十万石を領して若松城に住んだ。

――『寛政重修諸家譜』





432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/05(土) 01:08:04.45 ID:63EPQkxw
嫡子がアレだから、どっちにしろ駄目だったような

433 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/05(土) 17:14:24.46 ID:mWYlaOPV
会津って行く大名ロクな目にあってないように思えるのは気のせい?

434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/05(土) 18:26:23.26 ID:4BQaJR0y
要地だからな。
代替わりとかで任せられないと判断されたら速攻で減封移封

435 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/05(土) 18:27:24.42 ID:TpseN78i
譜代の鳥居ですら速攻改易だもんなあ

436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/05(土) 19:40:25.20 ID:lr38n4dg
>>423
生死の淵をさまよっていたとか関ヶ原本戦時とかでも本調子じゃなかったろうに
あの激しい追撃とかやっちゃうのか

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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    結果的にはその嫡子が改易の決定打になったのだけど。

    当時は一応評価はされていたのかな。

  2. 人間七七四年 | URL | -

    好学な人だったという評価もあるからね。

    勉学は出来が良かったけど、実際に跡を継いでみたらうまいこといきませんでした。
    ってタイプだったのかも。

  3. 人間七七四年 | URL | -

    家中騒動は面目の問題もあるから一概に当主が悪いとも言えんよね。

    管理人さん
    明成のタグが加藤"成明"になってます

  4. まとめ管理人 | URL | wZ.hFnaU

    ※3
    ギャー
    直しておきましたー。お恥ずかしい

  5. 人間七七四年 | URL | -

    一応大阪で実戦経験あるし、政もこなしているので
    一概に明成もただのおバカとは言えない。

    会津騒動も有る意味では蓋を開けてみれば新旧世代対立とも取れるし、
    堀家側の行動も鉄砲撃つとかやり過ぎた面もある。
    (逸話サイトに来る人たちだから、悪口言われてる武将達の評価が
    穿った物も多い事は御存じの筈)。

    かと言って擁護も殆ど出来ないけど・・・。

  6. 人間七七四年 | URL | -

    嘉明としては松山に残りたかったのかな
    それとも単なる謙遜か

  7. 人間七七四年 | URL | -

    >今となっては家臣の武事に馴れた者もすでに亡くなってしまいました。

    追い出したのは含めて…ないよね?

  8. 人間七七四年 | URL | -

    松山城築城中だし、河川の改修も済んだし、松山に未練があってもおかしくはないとは思う。
    気候もいいし

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