422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/21(金) 06:11:38.07 ID:sezvsa4b
元亀3年10月中旬、武田信玄による、徳川領三河。遠江への侵攻が始まった。
信玄は遠州只来、飯田の両城を落とし、さらに久能城へと進んだ時、家康方の侍対象の率いる
4千あまりの兵が三ケ野付近に現れた。
信玄は「あれを逃さぬように討ち取れ!」と命じた。家康方は武田軍の攻勢を見て引き上げようとしたが、
武田勢はこれを食い止めようとする。家康勢がまさに危機に陥った時、家康の侍大将、内藤三左衛門(信成)
という者が言った
「我が軍の総兵力8千のうち、ここにいるのは5千人だけで、家康公もご出陣されていない!
この状態では信玄のような名称に率いられた、3万あまりの大軍と合戦しても敗北は目に見えている。
もしここで敗れようものなら、残った家康公直属の部隊だけで、どうして信玄と戦うことが出来るだろうか!
ここのところは、なんとしても退却して浜松へ帰り、改めて一戦を遂げよう。その時には織田信長公の
加勢も期待できるだろう。8千の三河武者にそれを加えて、無二の一戦を遂げようではないか!」
しかし、そうは言っても既に戦闘は起こっており、内藤三左衛門もその場から引き上げることの出来かねる
状況であった。
その時、本多平八郎(忠勝)は25歳で、家康の下で度々巧妙をあげていたことで、おいおい武田の家にも
知られていたが、この平八郎が黒い鹿の角の前立てを飾った兜をつけて、身命を惜しまず敵と味方の
間に乗り入れ、無事に徳川勢を引き上げさせた。
その様子は、かつての甲州の足軽大将であった、原美濃守(虎胤)、横田備中(高松)、小幡山城(虎盛)、
多田淡路(満頼)、そして山本勘助の5人以後は、信玄の家中でも多く見られぬ武者振りであった。
家康の小身の家には過ぎた、本多平八郎の働きである。
そのうえ、三河武者は10人の内7,8人までは唐の頭(ヤクの毛)を兜につけていた。
これも家康には過ぎたものだというので、小杉右近助という信玄の旗本の近習が、歌に作って
見付坂(静岡県磐田市)に立てた。その歌は
『家康に過ぎたるものは二つあり 唐の頭に本多平八』
というものである。
(甲陽軍鑑)
有名な「家康に過ぎたるもの」の逸話である。
423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/21(金) 10:30:04.12 ID:l2Tpa5dM
後には厭離穢土欣求浄土の旗を見ると甲州勢が逃げ出すようになるわけだから奢る風林火山も久しからずだな
元亀3年10月中旬、武田信玄による、徳川領三河。遠江への侵攻が始まった。
信玄は遠州只来、飯田の両城を落とし、さらに久能城へと進んだ時、家康方の侍対象の率いる
4千あまりの兵が三ケ野付近に現れた。
信玄は「あれを逃さぬように討ち取れ!」と命じた。家康方は武田軍の攻勢を見て引き上げようとしたが、
武田勢はこれを食い止めようとする。家康勢がまさに危機に陥った時、家康の侍大将、内藤三左衛門(信成)
という者が言った
「我が軍の総兵力8千のうち、ここにいるのは5千人だけで、家康公もご出陣されていない!
この状態では信玄のような名称に率いられた、3万あまりの大軍と合戦しても敗北は目に見えている。
もしここで敗れようものなら、残った家康公直属の部隊だけで、どうして信玄と戦うことが出来るだろうか!
ここのところは、なんとしても退却して浜松へ帰り、改めて一戦を遂げよう。その時には織田信長公の
加勢も期待できるだろう。8千の三河武者にそれを加えて、無二の一戦を遂げようではないか!」
しかし、そうは言っても既に戦闘は起こっており、内藤三左衛門もその場から引き上げることの出来かねる
状況であった。
その時、本多平八郎(忠勝)は25歳で、家康の下で度々巧妙をあげていたことで、おいおい武田の家にも
知られていたが、この平八郎が黒い鹿の角の前立てを飾った兜をつけて、身命を惜しまず敵と味方の
間に乗り入れ、無事に徳川勢を引き上げさせた。
その様子は、かつての甲州の足軽大将であった、原美濃守(虎胤)、横田備中(高松)、小幡山城(虎盛)、
多田淡路(満頼)、そして山本勘助の5人以後は、信玄の家中でも多く見られぬ武者振りであった。
家康の小身の家には過ぎた、本多平八郎の働きである。
そのうえ、三河武者は10人の内7,8人までは唐の頭(ヤクの毛)を兜につけていた。
これも家康には過ぎたものだというので、小杉右近助という信玄の旗本の近習が、歌に作って
見付坂(静岡県磐田市)に立てた。その歌は
『家康に過ぎたるものは二つあり 唐の頭に本多平八』
というものである。
(甲陽軍鑑)
有名な「家康に過ぎたるもの」の逸話である。
423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/21(金) 10:30:04.12 ID:l2Tpa5dM
後には厭離穢土欣求浄土の旗を見ると甲州勢が逃げ出すようになるわけだから奢る風林火山も久しからずだな
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コメント
人間七七四年 | URL | -
さらっといる山本勘助
武者振りがいいイメージはないんだが
( 2014年02月21日 20:46 )
人間七七四年 | URL | -
これ出典は甲陽軍鑑だったんだ、初めて知った
( 2014年02月21日 21:18 )
人間七七四年 | URL | ZPZR469g
この解釈だと
・本多忠勝は家康には勿体ない名将だよ!
・三河武士は家康には勿体ない強兵だよ!
の意味かな?唐の頭の方はヤクの毛の兜なんか生意気だよ、と思ってたけど、
これなら意味が変わってくる。
( 2014年02月21日 21:51 [Edit] )
人間七七四年 | URL | -
あれっ?!
「一言坂の戦い」だよね?
家康いなかったんだっけ??
( 2014年02月21日 22:49 )
人間七七四年 | URL | -
具体的にどう戦ったのか書かないあたり、いかにも逸話って感じ
( 2014年02月21日 23:19 )
人間七七四年 | URL | -
ちょっと誤字が多いのが残念。
・家康方の侍対象(大将)
・信玄のような名称(名将)
・度々巧妙(功名)
( 2014年02月22日 13:31 )
人間七七四年 | URL | -
忠勝「キュィィィィン」
( 2014年02月23日 18:00 )
人間七七四年 | URL | -
信玄「ぜ、全滅!? 3分もたたずにか!?」
( 2014年02月23日 19:01 )
人間七七四年 | URL | b5.M5V.g
※5
具体的に書くと、本多忠勝と大久保忠佐の二将が殿を務めたが、
馬場信春の突撃の前に三つの備の内、二つまで打ち破られてしまった。
更に信玄の旗本の近習である小杉左近が一隊を率い迂回してその退路を断ったので、
本多・大久保両隊は小杉隊を敵中突破しようと突撃、
それを死兵と見た小杉左近は応戦する事なく見逃した。
その際に本多忠勝は小杉左近に名乗って感謝の意を表明したので、
小杉左近は後に「家康に過ぎたるものは二つあり 唐の頭に本多平八」という落首を書いた。
大久保「…」
( 2014年02月23日 20:17 [Edit] )
人間七七四年 | URL | -
「唐の頭」ってずっと佐藤忠信兜のことだと思ってた
( 2014年02月24日 10:25 )
人間七七四年 | URL | -
まあ、大久保さんは「長篠の戦い」で兄貴と共に賞賛されているからよしとしよう
「膏薬侍」って・・・
( 2014年02月25日 22:18 )
まる | URL | -
唐の頭とは家康だけかと思った
( 2014年02月26日 02:01 )
人間七七四年 | URL | -
家康の兜が良い物だってことかと思ってたわ
( 2014年02月27日 00:29 )
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