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直江兼続「下々の者が山形攻めを特に心配する必要はない」

2014年04月08日 21:44

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/08(火) 17:53:58.41 ID:J51LNWDh
直江兼続「下々の者が山形攻めを特に心配する必要はない」

1600年9月、長谷堂城を攻める直江兼続のもとに、一通の書状が届く

「関ヶ原で西軍敗れる」
 
そして、その返書が最近になって見つかった

返書の主は直江兼続本人

以前の通説では兼続が西軍敗れるの知らせを受け取ったのは、慶長5(1600)年の9月29日とされて来た

しかし、新たに見つかった文書の日付は9月21日
関ヶ原の戦いのわずか6日後の事である

「上方散々まかりなり候由聞き申候(上方で西軍が大敗したのを聞きました)」
『秋田藩蔵文書』

西軍敗退が明らかになった以上、上杉軍は即刻この戦をやめて帰途につかねばならなかったはず

相手の最上軍はその様な事はつゆしらず、長谷堂城に篭城し、最上義光も本隊を山形城に留めていた

兼続はさらに菅沢に帯陣を続け、9月25日には最上軍と大規模な戦闘を引き起こしている

義光を討てば短期決戦の一発逆転で庄内~米沢を結ぶ山形の地を手に入れ
徳川軍を相手に今後の長期戦を挑めるとでも考えていたのだろうか

長谷堂の戦いに参陣した直江軍の一手の将小幡播磨はやがて最上家に仕官する事となるが

小幡播磨「9月末から山城(直江兼続)の挙動は落ち着かず、西軍敗北を隠していたなら家臣たちはみな兼続一人に騙されて戦わされ続けていた事になる」

と語ったと伝わる





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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    上方の敗戦を伝えたら味方から離反者が続出しただろうな。
    そしてすぐに義光にも伝わる。
    離反者が義光に合流して追撃にまわるとしたら…。
    一戦始めてドサクサの中で撤退したほうが、上杉本隊の被害は少ないと考えたんじゃ無かろうか。

  2. 人間七七四年 | URL | -

    勝手な推理になるけど、

    「直江兼続は西軍の敗戦を隠しておこうと思ったが、
    他の武将の一部に情報隠しがバレそうになった。
    だから、わざと最上勢に強気になることで
    敗戦情報を否定しようとした」

    という可能性を思いついた。

  3. ゆとりある名無し | URL | -

    まず、第一報が本当がどうかはその後の続報を精査しなければならない。
    噂話や敵の謀略の可能性は十分に考えられる。
    帰還するにしても、なるべく犠牲を最小限にして撤退する方策を取らねばならない。
    撤退する側の士気は当然下がり、激しい追撃を受ければ落伍する兵も雪だるま式に増える。
    反対に最上方の兵は味方勝利の報に士気は天を衝く勢いになり、追撃戦は嵩にかかって攻めてこようし(戦後の恩賞にも関わってくる)、山形城からも最上の本隊が追撃してこよう。
    兵を失う事は今後の上杉家の存続に直接関わってくるのだ。
    幸い、最上方にはまだ関ヶ原の結果は届いてないようだ。
    兼続としては、敵から離隔し統制のとれた撤退をするには眼前の城を落とすのが一番安全だ。
    それに加え、関ヶ原で西軍が敗れたとはいえ、すぐさま天下が治まるのかどうかもしばらく見極めなければならない。
    また、上杉討伐軍が再編成されて攻め上ってくるにしても、中央での戦後処理にはやや日数もかかるだろうし、そうこうしてれば冬を迎える可能性も高い。
    後方を脅かす恐れがあり、すでに戦端を開いてしまった最上家を、なるべくならば屈服できないまでもせめて実質中立化できれば上杉家にとってそれに越したことはない。
    万一、勝った東軍が分裂して再び混沌とした乱世に逆戻りする可能性もゼロではない。
    関ヶ原のように、(全国各地での合戦や岐阜城攻防戦などの前哨戦はあるにせよ)たった一度の会戦で天下の覇者が決まった例は、歴史を振り返ってみればむしろ珍しいのだ。
    様々な可能性を考慮すると、長谷堂攻めを直ちにやめて撤退するとう選択肢は9月21日時点ではあり得ないという事になる。

  4. 人間七七四年 | URL | -

    >有り得ない
    テレビから知った腐の思い込みにしか見えないw
    選択肢は無数にある。
    粛々と撤退するのも一つの筋。
    大体、上杉が知り得た情報を関東の秀康が知らないとでも?
    それとも、上杉と徳川で出来レースを組んでたとでも?
    兼次様ぁの腐の思い込みには呆れる

  5. 人間七七四年 | URL | -

    1600年9月21日頃の状況

    上杉
    ・直江軍25000
    直江兼続・春日元忠・水原親憲・色部修理
    最上
    ・山形本隊3000
    最上義光・楯岡光直・延沢光昌・山野辺光茂
    ・長谷堂守備隊1200~1500
    志村光安・鮭延秀綱
    ・伊達の援軍3000(笹谷で足を止め、山形盆地入りを直前で止める)
    留守政景・湯目守重

    戦況
    9月20日頃に直江支隊の本村親盛が上山城攻めの最中伏兵に遭い、討ち死に
    本村隊3000~5000vs上山里見民部隊500~800

    1600年9月25日頃の状況

    上杉

    上杉
    ・直江軍25000
    最上
    ・山形本隊3000
    ・長谷堂守備隊1200~1500
    ・伊達の援軍1500
    (小白川から西進。しかし政宗の命令で屋代景頼と兵1500が福島方面へと転身)

  6. 人間七七四年 | URL | -

    パスワード設けずに書いて

    上杉をだぶらせてもうた…orz

  7. 人間七七四年 | URL | -

    ※3ですが

    ※4氏
    一般的に戦いで一番難しいのは”撤退戦”だと広く言われている。
    >粛々と撤退するのも一つの筋。
    包囲した城攻めで”粛々と”撤退するには、敵からある程度の距離まで敵部隊に接触されないように離れ、集結して再編成し行軍隊形を整えなければならない。
    つまり敵部隊から安全に”離隔”する必要がある。
    比較的距離のある対陣なら殿部隊置いて繰り引きするのはさほど難儀ではないかもしれないが、
    包囲戦での撤退は非常に難しいと言われている。
    眼前の長谷堂城や周辺の城には籠城した数千の敵がいる。
    山形には数千の本隊がいる。
    大軍だけに小回りが効かない。
    撤退時に敵の接触を受け続け、秩序だった撤退ができないと撤退が敗走になり、最終的に潰走する可能性もある。
    古今東西、戦いで一番被害が出るのは退却時の追撃戦だ。
    勝機の可能性があるのなら、一番安全に撤退するには眼前の敵を壊滅させるという選択肢を簡単には排除できない。
    なぜ長篠の戦いで武田軍は織田軍に突っ込んでいったのか?

    それから私はいわゆる”腐”ではない、民間で戦史を研究してるオジサンだよ。
    こんなサイトまで女性叩きコメントを書くのはあまり感心できない。

  8. 人間七七四年 | URL | -

    先の方へ

    上杉軍による長谷堂攻めは包囲戦ではなく
    地図や航空写真を見ればわかると思うのですが

    菅沢丘陵と富神山周辺に上杉軍が布陣

    長谷堂までの間に深田や街道

    1~2㌔挟んで独立丘陵の長谷堂城

    といった具合です

    遊軍と後詰の最上本隊の動きが気になるとは言え

    キルレシオは

    上杉25000vs最上亘理連合6000(山形本隊3000+長谷堂兵1500+亘理軍1500)

    しかも追撃の際に先頭付近(狐越旧道女子林)で最上義光が水原隊に狙撃されてますので
    戦闘状況の把握を少し捉え違えてるのではないでしょうか?

  9. 人間七七四年 | URL | -

    上杉と最上双方の史料から
    1600年9月14日頃に畑谷城を落とした兼続は負傷兵の後送と補給を兼ね兵站の部隊の一部を畑谷城に配し、山形盆地へ向け進軍。
    富神・菅沢に着いてからも畑谷から菅沢へ通じる道の軍道の整備を行っていたので、これが撤退を比較的にスムーズに促した材料のひとつにもなっています。

  10. 人間七七四年 | URL | -

    とりあえず腐女子叩きたいだけの人はどっか別のサイト行ったほうがいいのでは

  11. 人間七七四年 | URL | -

    ※3=※10説

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