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山中鹿之助、最後の手紙と鉄錆十二間筋兜

2014年04月15日 18:40

970 名前:山口きらめーる2013年12月13日号 vol.263より[sage] 投稿日:2014/04/14(月) 21:58:40.19 ID:2gIipmt1
山中鹿之助、最後の手紙と鉄錆十二間筋兜

1578年7月、3月に渡る吉川元春の包囲の前に上月城に籠る尼子再興軍は降伏。
総大将、尼子勝久の自刃を条件に将兵は助命を許される。
10年間、尼子再興軍の実質的指導者であった山中鹿之助も命は助かり、降伏の際
吉川元春に周防に3000石を持って迎えられる事を約束された(三卿伝(さんきょうでん)史料「御答書」による)
ものの、備後の国鞆に在陣中の毛利輝元の前に移送されることが決まる。

この際、鹿之助は先を予見したのか尼子再興を諦めた故かは解らぬが、共に戦った仲間に最後の手紙を残していた。

「永年の苦労と忠義は少しも忘れはしない。だからもうどこへでも奉公してよい」
(続く)

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/14(月) 22:03:42.18 ID:2gIipmt1
(>>970続き)
しかし、その直後、鞆への移送の際に尼子再興を諦めぬ鹿之助の執念を恐れた元春によってか、
降伏の条件を知らぬ毛利家の手によってか、いずれにせよ鹿之助は護送のさ中に
備中国合(阿井)の渡(現在の岡山県高梁市)で殺害され、その生涯を終える。

先の三卿伝によれば吉川が助命した条件を毛利が知らず、その為に毛利の手により
鹿之助は殺害されたとされ、その死を知った吉川は好敵手の死を哀れみ、その形見と
なった鉄錆十二間筋兜と鹿之助最後の書状を家宝として秘蔵し、今に伝える(吉川資料館蔵)こととなる。

好敵手を讃え遺品を家宝として残す良い話だけど、吉川家と毛利家の報連相が悪いお話。





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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    その最後の書状を吉川が持ってる時点で誰がヌッ殺したかモロバレだと思うけど?後から好敵手とか讃えられてもねぇ。

  2. 人間七七四年 | URL | -

    米1
    殺したのは毛利か吉川の何れかの指示だってのは最初から解ってるだろ、本文に書いてあるんだからさ。


  3. 人間七七四年 | URL | -

    遠慮なく言ってしまえば、元就以降の毛利家とはそういう汚い手を駆使して成り上がったんだから別に驚きも何もない

    報復のリスクを考えたら恐ろしくて夜も眠れない汚い手段を駆使したからこそ、あちこちに一族ねじ込んでた。という見方も出来る訳で

  4. 人間七七四年 | URL | Cnub/O7I

    米3
    いっしょけんめdisってるつもりかもしれんが、そうそう簡単に毛利の名声は揺るがんよ

  5. 人間七七四年 | URL | -

    TERU「Ha,全くだ、誰が何と言おうが俺の築いた毛利の名声は甍の如く揺るがないゼ」

  6. 人間七七四年 | URL | -

    ※4
    ディスカウントつーか権謀術数を駆使するってのは平易に言えばそういう事でしょ?というお話

  7. 人間七七四年 | URL | -

    >5
    元就、隆元、元春、隆景他多数『20分後。そこには親族一同から地獄の折檻を受けるTERU元の姿が!!!』

  8. 人間七七四年 | URL | -

    TERU「w…why…?」

  9. 人間七七四年 | URL | -

    >9
    隆元「んなこともわからんからオノレはゴミなんじゃボケがッ!!」
    隆景「このくぎゅもとい首バットをテメェの尻の(以下自主規制)」

  10. 人間七七四年 | URL | -

    鹿之助が確かに生きた証か。残党の癖に主家よりしぶとい奴らだった。一体何年かかった?

  11. 人間七七四年 | URL | -

    *10
    江戸時代の亀井騒動の理由が尼子再興だ。
    大阪の陣の更にあとだから……
    山中の死後40年くらいだな!!!

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