163 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/19(木) 21:15:56.66 ID:LcxLAkoG
藤堂高虎公の軍装は一定していなかった。前立ては多くの場合水牛を用いた。
大阪の陣以前には、藤堂家において『角衆』と称する、同じ水牛の前立てを許された者は
6,7人だけであったが、大阪出陣の時には、鉄砲頭、母衣衆にもこれを許したため、その人数は
激増して、いったい何人いるのかわからぬほどになった。
それから高虎公の頬当は黒塗りで、具足は小札黒糸の毛引きであった。
小手、佩楯は越中流を用いられた。
関ヶ原では鳥毛袖なしの具足羽織、大阪の陣ではもみの広袖の小袖を時々着用されていた。
幟は大阪の陣で三布の折懸、地紺に白餅三であったが、これも関ヶ原の時は白地に朱の丸三であった。
大馬印は、大阪冬の陣では白の三布の大四半に朱の丸一、夏の陣では赤い吹貫であった。
(西島八兵衛留書)
藤堂高虎の軍装についてのお話し。大阪の陣で藤堂家に水牛の前立て軍団が生まれていたのですね。
164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/19(木) 22:40:05.18 ID:OrbnQCsw
黒田水牛軍団は知ってたけど藤堂もだったのか
確かにあれ威圧感すごいしな
藤堂高虎公の軍装は一定していなかった。前立ては多くの場合水牛を用いた。
大阪の陣以前には、藤堂家において『角衆』と称する、同じ水牛の前立てを許された者は
6,7人だけであったが、大阪出陣の時には、鉄砲頭、母衣衆にもこれを許したため、その人数は
激増して、いったい何人いるのかわからぬほどになった。
それから高虎公の頬当は黒塗りで、具足は小札黒糸の毛引きであった。
小手、佩楯は越中流を用いられた。
関ヶ原では鳥毛袖なしの具足羽織、大阪の陣ではもみの広袖の小袖を時々着用されていた。
幟は大阪の陣で三布の折懸、地紺に白餅三であったが、これも関ヶ原の時は白地に朱の丸三であった。
大馬印は、大阪冬の陣では白の三布の大四半に朱の丸一、夏の陣では赤い吹貫であった。
(西島八兵衛留書)
藤堂高虎の軍装についてのお話し。大阪の陣で藤堂家に水牛の前立て軍団が生まれていたのですね。
164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/19(木) 22:40:05.18 ID:OrbnQCsw
黒田水牛軍団は知ってたけど藤堂もだったのか
確かにあれ威圧感すごいしな
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コメント
人間七七四年 | URL | -
この時代ってそんなに水牛軍団が出きるほど水牛っていたの?
そもそも、水牛って日本にいた(いる?)動物なの?
( 2014年06月20日 22:21 )
人間七七四年 | URL | -
半兵衛「えっ!?水牛に乗った軍団ということですか?
さすがにそれは私も考えたこと無かったなあ」
( 2014年06月20日 23:51 )
人間七七四年 | URL | -
※1
兜に水牛みたいな角をつけていたということでしょう。
( 2014年06月20日 23:55 )
人間七七四年 | URL | -
15年の間に、鉄砲頭の地位が向上したんだな。三成の指摘を受けて、もあり得るかな
( 2014年06月21日 00:11 )
人間七七四年 | URL | -
うーん…水牛なら脇立てかなぁ。前立てにするとそれはそれで愉快だけれども。
( 2014年06月21日 09:07 )
人間七七四年 | URL | -
前立て・・・だと?あそこは前なの?横だと思うけど?w
ラオウの兜も水牛形と言えるのだろうか?
( 2014年06月21日 09:39 )
人間七七四年 | URL | -
やっぱりみんな気になったか
水牛の角を前立てにするのは狭いような
( 2014年06月21日 15:42 )
人間七七四年 | URL | -
米1
いない。水牛のデザインの兜。
( 2014年06月21日 15:51 )
人間七七四年 | URL | -
兜というと角付きの思い浮かべる人多いんじゃないかな
( 2014年06月21日 19:16 )
人間七七四年 | URL | -
当然水牛軍団の掛け声は「エーコラー!!」(天山○吉)
( 2014年06月21日 20:30 )
人間七七四年 | URL | -
ギュウギュウ詰めでモ~大変
( 2014年06月21日 20:31 )
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