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進藤三左衛門正次の節義

2014年07月17日 18:51

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/16(水) 22:16:02.06 ID:i5spjsh6
宇喜多秀家の家臣に進藤三左衛門正次という者があった。
彼はかねてよりよく知られた武士であり、関ヶ原の合戦の後、秀家とともに逃亡したが、
やがて捕らえられ、家康より秀家の行方を尋問された。

正次は「私は秀家が敗走して後3日ばかり付き従いましたが、その後は主従別れ別れに隠れ忍んで
行方知れずと成りました。」と答えた。

家康はこれを聞くと「正次は君臣の義を重んじるが故に、その隠れる所を申さない事に疑いない。」と
却ってその忠義の志に感じ入り、金10枚を与え自分の元に留めおいた。
この時「秀家が秘蔵していた鵜飼國次の脇差しはどうなったか?」と尋ねたが、これに関しては
正次は関ヶ原の辺りで探し当て、家康に献上した。

さて、慶長8年8月、宇喜多秀家は潜伏していた薩摩から召し上げられた。
この時、本多正純、徳山則秀が彼を尋問したが、進藤正次に関して、彼は伊吹山中にて、
秀家を50日間に渡り深く隠し忍ばせたと、秀家は答えた。

先に正次は3日秀家に付き従ったと証言しており、その言葉と一致しない内容に、家康は
「その主を思うこと厚きが故に、己の美を殊更言い揚げなかったのだ」
と深く感じ入り、正次に500石を与え御家人に加えた。

(徳川実記)

徳川家康宇喜多秀家の旧臣に感じ入る、というお話し。

関連
進藤三左衛門正次の節義・別バージョン


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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    確かに権現様が好きそうな話だよなあ。
    進藤も、権現様の配慮を理解して、戦場に捨てられていた脇差を探し当てて、そのまま献上するなど、筋を通しているし。

    しかしこういう逸話見ると、何だかんだ言って権現様の家中に仕官するのが一番安全というかなんというか。
    基本的に分を弁えつつ真面目に職務に努めれば、新規参入組でも功績認めてもらえるし、順調に出世もできる。

    これが信長だったら、側近グループに入れば滅茶苦茶甘い査定だけど、そうでなければ無茶な任務押し付けられた挙句に、側近衆に功績を取り上げられるし、ラスボス様に至っては、ラスボス様の気まぐれという何よりも恐ろしいものがある。

    ちなみに主君と同じノリで楽しむんだったらまーくん所だろうなあ。
    と・・・言うか、伊達家中は主君と同じようにノリで楽しまないと、絶対やっていけないと思う。

  2. 人間七七四年 | URL | -

    "主と生死を共にしてこその侍よ。難に至りて、去る輩は言うに及ばず。"
    進藤さんを代弁するとこんな感じか?で、ケアしちゃうわけ。敵ながら天晴れな大将ですな内大臣は。

  3. 人間七七四年 | URL | -

    苦しい時は主君に従い、多少でも安定したら変にめんどくさくなく好待遇を受ける。

    完璧だな。

  4. 人間七七四年 | URL | -

    朱子学の影響を感じる

  5. 人間七七四年 | URL | -

    どうも徳川実紀では諸説ある中からこのエピソードを幕府公式として採用したみたいだね。

    他にも宇喜多秀家一行に見捨てられた家臣の一人が徳川方へ、島津の下へ逃げた秀家とは既に別れて社会復帰していた進藤さんが秀家と一緒に逃亡生活送っていたことを暴露、仕方なく進藤さんはかねてより預かっていた宇喜多秀家の脇差を自害の証拠として出頭して褒美を貰ったという話もあるようだ。

  6. 人間七七四年 | URL | -

    別に朱子学の臭いはしないがな。

  7. 人間七七四年 | URL | -

    明日俺、脇差しは秀家から受け取ったんだと思う
    忠義の士なのに変わりはないけど

  8. 人間七七四年 | URL | -

    明日?ww間違いですww

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