106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/02(火) 04:37:36.67 ID:Q4BWDwK2
猿の絵馬
最上家信(義俊)は生後を江戸屋敷で暮らしたが、父家親の急死により山形の遺領を継ぐ事となった
十とわずかばかりの年端も行かぬ新君主に、戦国の世を生き抜いた老臣らはまるで言う事を聞かぬ暴れ馬にも等しかった
亡き祖父義光と父家親の影響は余りにも幼少の家信には大きな壁となって、到る所で重圧となった
(家信は)平生、遊女傾城にたはふれ、有時は舟をもよおして夜を明かし、有時は居屋敷へ数十人の遊君を招集めかふき躍を事とし
『治代普顕記』
殿とは言え、尻の青いガキが酒や女にうつつを抜かし、寺社の再興はするが政事には不安が多過ぎる、と感じた生え抜きの重臣らは、家信を廃し、義光の四男の山野辺光茂(義忠)を最上家の当主として認めてもらいたいと幕府に願い出る行動に移った
最上家信は日枝神社に納める絵馬を描きながら、近習に悩みを打ち明けた
家信「わしは絵は好きだが、他の倣いには向かない様だ。天は何故にわしを最上家の世継ぎに生んだのだろうな。まるで芸を仕込まれる猿じゃ…」
鳥越久兵衛「殿はまだ若うござる。松根光広さま等のご助力を仰ぎ、ゆっくりでも確実に、政道をも修めて行きましょうぞ」
絵馬奉納の二年後に「家内騒動をまとめられぬ者に、奥羽の抑えの山形を領する資分なし」として、最上家信は改易された
最上家信の筆とも言われる猿の絵馬
http://www.kankou.yamagata.yamagata.jp/db/cgi-bin/search/search.cgi?panel=detail&d01=10077011995180&c=10
猿の絵馬
最上家信(義俊)は生後を江戸屋敷で暮らしたが、父家親の急死により山形の遺領を継ぐ事となった
十とわずかばかりの年端も行かぬ新君主に、戦国の世を生き抜いた老臣らはまるで言う事を聞かぬ暴れ馬にも等しかった
亡き祖父義光と父家親の影響は余りにも幼少の家信には大きな壁となって、到る所で重圧となった
(家信は)平生、遊女傾城にたはふれ、有時は舟をもよおして夜を明かし、有時は居屋敷へ数十人の遊君を招集めかふき躍を事とし
『治代普顕記』
殿とは言え、尻の青いガキが酒や女にうつつを抜かし、寺社の再興はするが政事には不安が多過ぎる、と感じた生え抜きの重臣らは、家信を廃し、義光の四男の山野辺光茂(義忠)を最上家の当主として認めてもらいたいと幕府に願い出る行動に移った
最上家信は日枝神社に納める絵馬を描きながら、近習に悩みを打ち明けた
家信「わしは絵は好きだが、他の倣いには向かない様だ。天は何故にわしを最上家の世継ぎに生んだのだろうな。まるで芸を仕込まれる猿じゃ…」
鳥越久兵衛「殿はまだ若うござる。松根光広さま等のご助力を仰ぎ、ゆっくりでも確実に、政道をも修めて行きましょうぞ」
絵馬奉納の二年後に「家内騒動をまとめられぬ者に、奥羽の抑えの山形を領する資分なし」として、最上家信は改易された
最上家信の筆とも言われる猿の絵馬
http://www.kankou.yamagata.yamagata.jp/db/cgi-bin/search/search.cgi?panel=detail&d01=10077011995180&c=10
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コメント
人間七七四年 | URL | -
文中の鳥越さんは資料で「鳥九」「九エ」と書かれるから、【九兵衛】なのか【九右衛門】かわからなくなる
( 2014年09月02日 19:10 )
人間七七四年 | URL | -
家督相続が数え13歳。改易が17歳で27で死亡。
相当のストレスだったんだろうな。
( 2014年09月02日 19:32 )
人間七七四年 | URL | XPh8VFiw
この猿の絵馬より前、襲封後間もなくに家信が描いたと見られる大絵馬が天童市に残っている。駿馬と口取りをほとんど等身大で描く大作だが、スレの小さな猿の絵馬と毛色が同じ白黒の斑馬を描いている。愛馬だったのだろうか。切ない。
( 2014年09月02日 19:49 [Edit] )
人間七七四年 | URL | -
江戸初期が特別な時代なのかもしれんが、幼君を守り立てんと家中が逆にまとまる、って例は三河以外にないのかねぇ。義俊かわいそう。
( 2014年09月03日 01:14 )
人間七七四年 | URL | ZPZR469g
※4
ちゃんと家という組織が出来上がってからならともかく、最上氏みたいに
まだ国人意識が強い家臣が残っている状況の幼君はかなり厳しいんだろうな。
松平氏は寄親になっていた今川氏が家康の家督相続を認めて代官派遣して
後援していたのが大きかったんじゃないかと思う。
( 2014年09月03日 03:27 [Edit] )
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