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上杉軍の侵攻の早さに

2014年09月13日 18:53

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/13(土) 10:29:11.18 ID:br53l3F2
上杉軍の侵攻の早さに

慶長5(1600)年9月13日の昼過ぎ、直江兼続は畑谷城を落とした

挙げた首級は500余り
味方の死者は200余り、負傷者は数百ほどと、寡兵の城を落とすには被害は少なくはなかった

直江軍の支隊の中条三盛・吉岡家能・土橋惟貞らは付近の鳥屋ヶ森城・左沢城・山野辺城・八ツ沼城を攻撃

山野辺城は明け逃げ策が取られていたが、左沢城には最上方に与する地元の国人が百姓らと立て篭もり、
上杉軍相手に気勢を上げていた

しかし上杉軍の侵攻の早さに八ツ沼城では、山形城に入っていた城主和田正盛の代わりに留守を任されていた
望月隼人らが撤退の期を失い、衆寡敵せず自刃して果てた

最上義光は畑谷城の江口道連をどうにか連れ戻す様に飯田播磨(信兼)と谷柏相模(直家)を畑谷への救援へと派遣したが
援兵が畑谷口に入る頃にはすでに城は攻め落とされていた

上杉軍の電撃戦のお話




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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    ここら辺は流石上杉という手並みだけど、もともと慶長出羽合戦って、徳川が攻め込む直前に詫びを入れる手はずだったのを、上杉にとっては最悪のタイミングで上方勢が挙兵してしまったことでにっちもさっちもいかなくなって、半ば泥縄的な対応をしなければならなかった側面があるんだよねえ。

    だからこそその場その場の状況の対応で軍を動かさざるを得ず、おかげで東北の大名連中も振り回されることになる訳だけど。
    ある意味、上杉に攻め込まれたことで戦略目標が固定化されたからこそ、鮭様は対応がやりやすかったのかもしれんね。(逆に選択肢が多かった分、スケベ根性出してしまって大魚を逸したのがまーくんと)

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