109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/24(金) 00:27:12.10 ID:Tai7vUmf
山本勘助が駿河から甲府に、初めて召し寄せられた時、武田信玄は勘助に、駿河今川家の噂を尋ねた。
勘助は申し上げた
「義元公の御家は昔から高家とされています。つまり京の公方家が絶えれば吉良がその後を継ぎ、
吉良も絶えれば今川が継ぐとの謂れがあり、家風何れも少しも欠けるものは有りません。
しかも駿河・遠江・三河三ヶ国の主であれば、様子気高く、物の名人が他国より集まり、
殊更良き家老集も沢山あり、その配下は中名、小名まで武道を心がけていること、言うまでも有りません。
その上臨済寺雪斎が義元公の補佐をし、公事沙汰万事の指引浅からざるゆえ、尾張国織田弾正なども
駿府に出仕いたすようになったので、末々は京都までも義元公が御仕置きなさるようになると、
各々風聞されています。
ですが、私は一段危ういと考えています。
どういう事かといえば、仮に雪斎が明日にでも亡くなれば、その後家老衆の政務のさばきが
たとえ良かったとしても、雪斎の政治の印象があまりに鮮やかであったため、彼が補佐していた時代より
政務の裁きは劣っていると、諸人は考えてしまいます。
だからといって雪斎のような物事をよく知る長老にまた頼るようであれば、今川家について、
尽く坊主がいなくては成り立たぬ家であると諸人の批判を浴びるでしょう。
これが私の考える今川家の危ういことです。」
信玄はこれを聞いて、
「山本勘助は聞こ及んだ事に違わぬ分別・才覚の持ち主であり、工夫の智略も宜しく思案する
広才人である、たとえ一文字も書けなくても、学問がなくても、物識りと呼ぶべきはこの勘助である。
彼はただ、智者と申すべき人物だ。」
そう申して信虎の時代より二代にわたって仕えた4人の足軽大将にこの勘助を加え、その年から
五人衆として再編したのである。
(甲陽軍鑑)
山本勘助、信玄に最初の面接で感銘を与える、というお話。
110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/24(金) 18:59:57.58 ID:Dl1Xuhoc
>尾張国織田弾正なども駿府に出仕いたすようになったので
この織田弾正って信秀の事ですか?
信秀が太原雪斎の存命中に今川家に仕えるようなことってあったんですかね
それとも尾張に別の織田弾正と呼ばれる人物がいたのか
ただ単に甲陽軍鑑が甲陽軍鑑しちゃっただけなのか
112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/24(金) 20:54:58.03 ID:rzrzqaQX
そのころの織田は一枚岩じゃなかったんだよ
113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/24(金) 23:39:44.54 ID:ZgMX+YPR
捕まった信広のことだったりして
114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 00:17:10.28 ID:TkDS1XRG
甲陽軍鑑にいちいち突っ込み入れてどうすんのさ
116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 02:21:32.03 ID:DjH7tebX
雪斎の没年が1555年か
信秀はもう死んでるし、信長は状況的に駿府に行くどころじゃないよね
117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 02:53:57.40 ID:j6b+ZBu0
雪斎生きてる時の話、ということになってるが
山本勘助が駿河から甲府に、初めて召し寄せられた時、武田信玄は勘助に、駿河今川家の噂を尋ねた。
勘助は申し上げた
「義元公の御家は昔から高家とされています。つまり京の公方家が絶えれば吉良がその後を継ぎ、
吉良も絶えれば今川が継ぐとの謂れがあり、家風何れも少しも欠けるものは有りません。
しかも駿河・遠江・三河三ヶ国の主であれば、様子気高く、物の名人が他国より集まり、
殊更良き家老集も沢山あり、その配下は中名、小名まで武道を心がけていること、言うまでも有りません。
その上臨済寺雪斎が義元公の補佐をし、公事沙汰万事の指引浅からざるゆえ、尾張国織田弾正なども
駿府に出仕いたすようになったので、末々は京都までも義元公が御仕置きなさるようになると、
各々風聞されています。
ですが、私は一段危ういと考えています。
どういう事かといえば、仮に雪斎が明日にでも亡くなれば、その後家老衆の政務のさばきが
たとえ良かったとしても、雪斎の政治の印象があまりに鮮やかであったため、彼が補佐していた時代より
政務の裁きは劣っていると、諸人は考えてしまいます。
だからといって雪斎のような物事をよく知る長老にまた頼るようであれば、今川家について、
尽く坊主がいなくては成り立たぬ家であると諸人の批判を浴びるでしょう。
これが私の考える今川家の危ういことです。」
信玄はこれを聞いて、
「山本勘助は聞こ及んだ事に違わぬ分別・才覚の持ち主であり、工夫の智略も宜しく思案する
広才人である、たとえ一文字も書けなくても、学問がなくても、物識りと呼ぶべきはこの勘助である。
彼はただ、智者と申すべき人物だ。」
そう申して信虎の時代より二代にわたって仕えた4人の足軽大将にこの勘助を加え、その年から
五人衆として再編したのである。
(甲陽軍鑑)
山本勘助、信玄に最初の面接で感銘を与える、というお話。
110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/24(金) 18:59:57.58 ID:Dl1Xuhoc
>尾張国織田弾正なども駿府に出仕いたすようになったので
この織田弾正って信秀の事ですか?
信秀が太原雪斎の存命中に今川家に仕えるようなことってあったんですかね
それとも尾張に別の織田弾正と呼ばれる人物がいたのか
ただ単に甲陽軍鑑が甲陽軍鑑しちゃっただけなのか
112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/24(金) 20:54:58.03 ID:rzrzqaQX
そのころの織田は一枚岩じゃなかったんだよ
113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/24(金) 23:39:44.54 ID:ZgMX+YPR
捕まった信広のことだったりして
114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 00:17:10.28 ID:TkDS1XRG
甲陽軍鑑にいちいち突っ込み入れてどうすんのさ
116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 02:21:32.03 ID:DjH7tebX
雪斎の没年が1555年か
信秀はもう死んでるし、信長は状況的に駿府に行くどころじゃないよね
117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 02:53:57.40 ID:j6b+ZBu0
雪斎生きてる時の話、ということになってるが
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コメント
人間七七四年 | URL | ZPZR469g
甲陽軍鑑基準で行くと、これ1543年の話だよね。
第二次安城合戦の後に、今川氏と織田氏の間で講和したのをこう表現してるのかな。
( 2014年10月24日 19:40 [Edit] )
人間七七四年 | URL | -
信長だけが実力主義の登用をおこなっていたって風潮は誰が作ったんだ?
( 2014年10月24日 21:41 )
人間七七四年 | URL | -
普通に実用的な話じゃんよ。
>信玄はこれを聞いて、〜以下省略
〜勘助(だけ)を重く用いたのである。
って結びだったら、ワロタな話しだったんだけどなー。
( 2014年10月24日 22:20 )
人間七七四年 | URL | -
三河の領国化は勘助が武田家に出仕した時には済んでいたかな?
何かいつもの甲陽軍鑑だな
( 2014年10月25日 00:16 )
人間七七四年 | URL | -
一行目
> 山本勘助が駿河から甲府に、初めて召し寄せられた時
これだけで甲陽軍艦よゆう
( 2014年10月25日 00:26 )
人間七七四年 | URL | -
甲陽軍艦は民明書房ポジだと思えば、面白く感じる!
( 2014年10月25日 11:37 )
人間七七四年 | URL | -
みんな甲陽軍艦の使い方を分かってきたようだな
( 2014年10月25日 13:52 )
人間七七四年 | URL | -
そのまま武田家に当てはまるのがなんとも皮肉だなぁ。
( 2014年10月25日 16:28 )
人間七七四年 | URL | -
義元「吉良に代わって、御仕置きよ!」
( 2014年10月25日 16:49 )
人間七七四年 | URL | -
米6
あのサイコロの逸話は甲陽軍艦にも載っていそう
( 2014年10月26日 13:13 )
人間七七四年 | URL | -
※2
風潮ではなく事実
だから勘介の役職は足軽大将止まり
( 2014年10月26日 20:44 )
人間七七四年 | URL | -
※10
しかも登場人物たちは甲斐武田家の武将達。如何にも脳筋臭いと云う
雰囲気が漂っているのが余計にらしさを感じてしまう。
( 2014年10月30日 14:16 )
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