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井伊家の”分割”

2014年10月28日 18:42

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/22(水) 19:17:34.60 ID:vWKROlyd
直継の母って家康養女で直政の正室だったけど若い頃は病弱だったからこんなこと遺言したのかな
結局井伊宗家当主という激務から解放されたおかげか直継は弟の直孝より長生きすることにはなるけど

129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/27(月) 18:37:06.55 ID:2yWu0xJ3
>>101
井伊家が抱える人材は大多数が甲州軍からの転属組で、直政の代に配された
一方、遠江の一豪族時代からの臣は、先代直虎が立て直したとはいえ、
滅亡同然と離散を経験したこともあり、人数的にははるかに少ない
これら二つの派閥は折り合いが悪かった
内紛へと発展する前に甲州組を直孝に、遠江譜代を直継にと分割させるよう
家康が干渉した
直継に大身の方の井伊家を退かせるために「病弱」という口実を設けた節があり、
実際には病弱ではなかったかもしれない

直継の母は松井康重の姉(父康親は早くに亡くなり、弟が若くして当主を継いだ)で、
妊娠したばかりの段階で、直政がつい彼女の侍女に手を出して孕ませてしまった
正室が嫁入りの際に連れてきた侍女であるから、松井家の臣の娘だったりする
正妻に無断でやってしまったことの難を恐れた直政は、その侍女を松井家に送り帰し、
直孝が産まれた

また直政は一時的に松下家の人間だったことがある
実父が今川氏真に粛清された後、実母が子連れで松下家の人物と再婚した
井伊家を立て直そうと活動する直虎が直政を引き取る展開がなければ、
直政は松下源左衛門と縁戚のままになっていた



130 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/27(月) 19:18:21.90 ID:IrZURnk8
松下家て猿の主人だった松下?

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/28(火) 18:09:43.58 ID:VodI4vNF
>>130
その一族だよ
余計に猿の豊臣なんかと思ったか否か

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/29(水) 07:16:57.39 ID:9/SSFuiS
直政の継父だかその息子の松下清景(Wikipediaでは継父になってる)が
天正10~12年の間に直政に付属されて仕え、直政没後には直継に仕え安中移封に従ったらしい。
子孫は維新まで越後与板井伊家の家老となったみたいだ。
清景の弟の松下安綱の系統は幕臣となった。

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/29(水) 07:50:59.90 ID:9/SSFuiS
やっぱり継父は松下連昌(清景の父)の方なのかな

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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    >井伊家が抱える人材は大多数が甲州軍からの転属組

    そういや直政が死んだ時殉死者がゼロだったのは、
    本人の性格がアレだったのに加えてこういう事情もあったのかな

  2. 人間七七四年 | URL | -

    直接は家康の家臣になりもともとは直政につけられた与力だからな
    つうかそれだけに関わらず、畳の上で病死の主人に殉死する習慣などこの時点では無かったと思うわ
    家臣と衆道関係に有ったとかならまだ分かるけど
    直政は家康っさんとならわかるが、配下や小姓などとそんな関係にはなってないだろうし

  3. 人間七七四年 | URL | -

    最もそれでも直政に殉死しようと懇願した与力は居たらしいが本人に止められている

  4. 人間七七四年 | URL | -

    病死での殉死者を出したのは松平忠吉がお初で
    そこから武士の間で流行したんだっけ?
    その人が殉死していたら一転して直政が最初の病死での殉死者を出していた事になるのかな

    >甲州からの転属組
    ただでさえ「戦死」した主人に殉じなかった人たちだからね

  5. 人間七七四年 | URL | -

    病死の主人に殉死する習慣はまだこの頃無かったそうですが、女性の主人に殉死する習慣も
    まだなかったのでしょうか?島津義久の次女の新城が寛永一八年(1641年)に亡くなった
    時に冨山助兵衛という人が殉死(1説には女中1名(姓名未詳)も殉死)しているのですが。

  6. 人間七七四年 | URL | -

    ※5さん
    主人の戦死後に家臣達が最後まで戦い抜いて戦死と言う事も「殉死」に値するので、殉死は
    珍しい事柄と言う訳でもなかったと思います。

    あくまでも今回の場合は、「主人が病死等で亡くなった後に、家臣達が追い腹をする習慣」です。
    この場合でも、それ以前の時代に絶対に一件も事象が発生していないと言う事はないと思います。

  7. 人間七七四年 | URL | -

    当時には当時の価値観があったんだろうけど
    病死の主君に殉死というのは現代人の俺からすると無駄死にのように思えちゃうなあ

    権現様は殉死ダメゼッタイって考えだったみたいだね

  8. 人間七七四年 | URL | -

    6さん、ありがとうがざいました。5です。
    主人の戦死後に殉死する例はある程度知ってはいましたが、勉強不足の為
    主人が病死等で亡くなった後殉死した例は、松平忠吉と新城ぐらいしか
    知らなかったもので…

  9. 人間七七四年 | URL | -

    米5
    忠吉が亡くなったのは1607年でその時に3人だか殉死してそれからだから(戦がなくなったから)
    1640年代だったら病死でも普通にあった

  10. 米9 | URL | -

    5人だった
    殉死の殉死も居たし。
    どちらにせよ戦国武将による主君の病死などの自然死による家臣の殉死は
    江戸幕府が成立した後の忠吉からでそこから急速に広まった。
    殉死者は主君と衆道関係に有ったり下級武士が多かったと。

  11. 人間七七四年 | URL | -

    なかなか興味深い

  12. 人間七七四年 | URL | -

    9さん、ありがとうございます。5です。
    たしかに自然死による家臣の殉死は江戸時代になってから多くなってますね。
    まだまだ殉死についてよくわからなくて…1619年に義弘の後を追って
    13名の家臣が殉死した時には殉死禁止に反したことで、悪久が殉死者の家禄とか没収している  (13年後に許される)けど新城の時にはなんで大丈夫だったのか?人数の問題か、殉死者が
    薩摩藩の中心人物ではなかったからか?(幼少時に朝鮮出兵で日本に連れてこられ、
    その後島津義久→島津新城に仕えた人物だそうです。新城に養育された恩義から跡を追って
    殉死したと伝えられています。)その時の当主が悪久ではなく光久だったからか?
    もうちょっと自分で調べないといけませんね。

  13. 人間七七四年 | URL | -

    島津や鍋島などの九州の藩に殉死が横行していたんだよな

    しかし1607年より前に病死で死んだのに直政だけがなぜ殉死者ゼロと言われるのかと思ったら
    中村(井伊)達夫氏が殉死の間違った解釈で
    「当時はまだ殉死が禁止されていなかったと思うが殉死者が居なかった」と本などに記したからなんだよな

    >138
    秀吉には仕方ないと思っただろうが甥の秀次にまで従うのは納得出来なかっただろうな
    それが秀次との碁の対局で皮肉を言った逸話に表れている

  14. 人間七七四年 | URL | -

    ※3
    伊賀越えにも協力した小林仁左衛門という家臣のことですね

  15. 人間七七四年 | URL | -

    小林仁左衛門は元は豊臣秀次の家臣だった人らしい

  16. 人間七七四年 | URL | -

    殉死と云い戦国期最後の方の戦っぷりを見ても、平和に近付くにつれて死にたがり
    が増えている気がする。特に若い世代の死んで名を残そう的な雰囲気。
    しかも、生きていたら回りから責められる場合もあるって酷いですね。

  17. 人間七七四年 | URL | -

    6さん、9さん、5です。
    あらためてお礼とお詫びを申し上げます。
    今日思い出したのですが、日新斎が永禄11年(1568年)没、貴久が元亀2年(1571年)没で
    自然死による家臣の殉死者を出していました…
    日新斎にはこんな話もあったのに…

    井尻宗憲の殉死の仕方
    ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/tb.php/1520-bae98300

    久保の場合は(文禄2年(1593年)没)文禄の役で病没したから戦死に準じるのでしょうか。

  18. 人間七七四年 | URL | -

    薩摩に限らず
    自然死による家臣の殉死が一般的に広まったのは、ってことじゃないの?
    それかカウントされるような殉死じゃなかったとか

  19. 人間七七四年 | URL | -

    ※17
    既に読んでいるかもしれないが殉死に関しては山本博史の「殉死の構造」あたりを読めばいいんじゃないかな。
    自然死の主人に殉死したのは古くは1392年の細川頼之に殉死した三島外記入道が最初だった。
    「畳の上で死んだ主人に殉死するのは至極希な事だった。」

    そして病死した主君に殉死するのが流行しだしたのは
    戦乱がほぼ終息した時の将軍の弟である松平忠吉に殉死者が出たのが最初となる。
    そこから次第に増えるようになった。
    しかし誰でも殉死しようとするわけではなく

    ①主君の格別の恩寵を受ける(衆道関係)
    ②自己の出自に比して破格の待遇を受ける

    このように一定の条件を持っていた。

    だから上に挙げられたような
    家臣の背景(譜代の家臣がいなく元は家康によって附された家康の家臣)を持ち
    「1602年に」「自然死」で没した直政に殉死者がいないのは当たり前で
    もし小林仁左衛門が殉死していたらそれが「最初」となっていたのかもしれない。

  20. 17 | URL | -

    19さん、5・17です。
    山本博文氏の本は「江戸城の宮廷政治」と「遊びをする将軍 踊る大名」しか読んでませんので
    「殉死の構造」は知りませんでした。教えていただきありがとうございました。
    休みの日にちょっと本屋さんに探しに行こうと思います。
    初心者でまだまだわからないことだらけですが、いただいたレスと教えていただいた本で
    もう少し勉強していきますね。

  21. 人間七七四年 | URL | -

    直政の後の井伊家みたいに次代がまだ幼君とかだと
    お家の為に幼君を補佐していく事の方がよほど報いになるし忠義者だよ。

    家光が薨去した時に幼い家綱を支えていくことこそ忠義だと
    松平信綱と井伊直孝が堀田とかを必死に止めようとしたけど叶わなかったんだよな。
    主君と衆道関係にあったとかだと変な義務感というか
    ここで自分も追い腹を切らなければ立場がないとかあったんだろうね。

  22. 人間七七四年 | URL | -

    大戦が終わったばかりまだ不安定な江戸幕府成立前と
    幕府成立後で家康→秀忠と政権が確立安定してからでは違うんだろうな
    大坂の陣後では余計に戦はもう無いだろうから、的になるだろうし

  23. 人間七七四年 | URL | -

    コメ見ると殉死についての考え方は地域や主君によって様々だから一概に殉死者の数がその人の人気の指標としてしまうのは間違ってるんだなと思った。主君が死んだ後のお家のことを考えると家臣が死ぬなんてマイナスだし、まだ戦のあった時代にそのなことをして家中の統率が取れなくなるのは困るよね…。
    当時の人の殉死についての考え方が気になるわ、本多忠勝が自然死したときに家臣の家臣が追い腹をしないといけないのを嘆いてる句とかあるし。

  24. 人間七七四年 | URL | -

    コメ見ると殉死についての考え方は地域や主君によって様々だから一概に殉死者の数がその人の人気の指標としてしまうのは間違ってるんだなと思った。主君が死んだ後のお家のことを考えると家臣が死ぬなんてマイナスだし、まだ戦のあった時代にそのなことをして家中の統率が取れなくなるのは困るよね…。
    当時の人の殉死についての考え方が気になるわ、本多忠勝が自然死したときに家臣の家臣が追い腹をしないといけないのを嘆いてる句とかあるし。

  25. 人間七七四年 | URL | -

    ごめんなさい、二回コメ投下してしまいました。

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